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2009年10月31日 (土)

「終戦覚書」について

 岩波書店発行の雑誌「世界」創刊当時のものを探して、近くの図書館を訪ね歩いた。「世界」は終戦の翌年、昭和21年1月に創刊され、現在まで続いている。その年の3~5月号を探していたのだ。町田中央図書館には5号と12号だけあったが、目指すものは揃っていなかった。
 近傍の図書館まで蔵書検索をしていただいた結果、都立中央図書館(港区南麻布・有栖川宮記念公園内)、国会図書館(千代田区永田町)、それに近くの相模原中央図書館に「永久保存」されていることが分かった。国会図書館には1号から108号(昭和29年12月号)までがマイクロフィッシュで対応しているが、現物は見られないとのこと。
 昨日は横浜線淵野辺駅西口近くの相模原中央図書館を訪ね、調べものセンターのお世話になった。

 探していたのは、辰巳亥子夫氏の「終戦覚書」シリーズ、その中身は-
  その一 マリアナ敗戦余燼 (昭和21年3月号)
  その二 決戦か終戦か ( 同4月号)
  その三 悲しき終止符 (同5月号)
である。太平洋戦争の開戦前後・戦中における海軍と陸軍との確執や、戦争後半の東条内閣打倒運動から敗戦前夜における軍内部の動きなどを、海軍の要職にあった立場で回想している内容だ。
 ソ連への講和仲立ち要請の動き、ポツダム宣言の取扱とか、海軍内部にあってある立場での動きを、当事者として書いている。文中に「S」として出てくるのは筆者の辰巳氏であろうと想像される。
 辰巳亥子夫とは、終戦直前には海軍省教育局長をしながら米内海軍大臣、井上次官などから秘かに終戦工作を命じられたという高木惣吉海軍中将のペンネームである。Sとは惣吉の頭文字からとったのか。東久邇終戦内閣では副書記官長だった人物である。(この項、ウィキメディアを参考にしました)。

 実は「終戦覚書」の発見は、別の記事を探していての副産物である。昭和20年8月に原爆が広島に落とされた直後、トルーマン米大統領がそのことを発表したとの報道を同盟通信が傍受した。
 同盟通信の古野社長は記者を仁科芳雄博士のもとに使わし、その情報(同社戦時調査室が発行していた「敵性情報」と呼ばれていた)を知らせたという事実を、昨年共同通信社(同盟通信の後身)が記事として配信した。
 その記事を書いたO記者からの情報で、その事実を仁科博士が「世界」の第3号に発表していると知ったからだ。
 「世界」の3月号には仁科芳雄博士が「原子爆弾」との題で、前記のことから広島を調査して原子爆弾であることを確認、さらに原子爆弾の原理についても詳しく発表されていた。さらに次月の4月号には、「原子爆弾とアインスタイン」と題するY.N.との署名記事も載っていた。
 当時、広島と長崎に落とされたのは「特殊爆弾」としか、国民に知らされていなかった。それを「原子爆弾」だったと国民に公表されたのは何時だったか。翌年始めには、原爆についての詳細な解説記事までもが発表されていた事実を知った次第である。

2008年4月22日 (火)

山梨平和ミュージアムにて

 山梨平和ミュージアムにて、アジア太平洋戦争の戦争体験者お二人の話を聞く機会があった(2008年4月20日=日)。地元の新聞に案内記事が出ていたので、愛宕町教会の礼拝に出席した帰途に立ち寄った。

 在原さんは833歳。1944(昭和19)年12月に召集で北支(中国北部)山東省無棣に駐屯していた衣第4294部隊で1期の教育を受けた。その新兵も実戦に投入される。行軍中に奇襲を受け、日本軍の服を着た敵の手招きに彼らの穴に逃げ込んで捕虜になってしまった戦友の話。(後で無残に吊るされた姿で発見される)
 銃剣で民家の扉を開け、引き金に人差し指をかけたままで暗い室内を覗くと人気がする。逃げ遅れた老婆と幼い男の子が息をひそめて震えていた。外の戦友の声にそのまま出たが、誰もいなかったと報告するが戦友に嘘を報告する後味の悪さ。
 数名の戦友と下士官の後についてさまよったすえに友軍の群れに出会ってホッとするが、逃亡兵と勘違いされたのか申告する下士官が中隊長に拳銃で射殺されてしまう。その中隊長は、数刻の後に古兵に手榴弾で処分されてしまった事件。
 終戦後はソ連に抑留され、古瓶に手紙を書いて密かに川に流す。日本海に流れ、故郷の親に無事を伝えられないかと。

 松尾さんは80歳。国民学校高等科2年で海軍少年兵を志願、横須賀海兵団、通信学校の教育を経て東部ニューギニア・ウエワクの特別根拠地隊に配属される。
 B24やP38の大編隊による空襲で、陸軍の重爆や隼戦闘機など甚大な損害を受け、その敵戦果をオーストラリアからの日本語放送で知る。しかし、内地の通信隊からの「新聞放道」(日に2回のモールス平文放送を受信するのも担当だった)には入らず、数日遅れた同放送では「敵に与えた戦果は甚大で、我が方の損害軽微なり」との内容に、大本営の発表への信頼性を失う。
 ウエワク沖の小島カイリル島で飢えと病気の苦しみの中に、17歳の時に終戦を迎える。

 懇談の中で、「どの国の兵隊も悪いことをする。しかし一般の国民は悪くなかった」との実感を述べ、あの戦争体験から「日本は外国と戦争をする力はない。また他国が攻めてくる可能性は(資源的にも魅力は)ない。自衛隊は無意味、消防を強化すべきだ」との在原さんの発言には感銘を受けた。

048  山梨平和ミュージアムは、別名「石橋湛山記念館」として、彼に関する資料が常設展示され、企画展示として甲府空襲(昭和20年7月6日)の実情や甲府49連隊に関する資料も展示されていた。
 このミュージアムは有志の努力で設立され、維持運営されているという。

 【写真】 山梨平和ミュージアム(石橋湛山記念館)の正面。

2007年12月 2日 (日)

旧陸軍登戸研究所跡を訪ねて

 小田急線生田駅に近い、川崎市多摩区生田の明治大学工学部・農学部構内にある旧陸軍登戸研究所の遺跡を訪ねた。それは「川崎・横浜 平和のための戦争展」のプレイベントとして同研究所の保存を求める川崎市民の会が企画して広く呼びかけてくれた機会だった。

 当日の参加者に配られた「見学のしおり」によると、1937年、東京市内戸山が原にあった陸軍化学研究所が電波に関する事件研究のため、現地に秘密の研究所を開設したのが始まり。その後、陸軍参謀本部直属の「陸軍第9技術研究所」となり、秘密・謀略戦の研究所として拡充されてゆく。最大時には約11万坪、付近の住民をふくめ約1000人が働く巨大な秘密兵器生産工場となった。

 研究内容もラジオゾンデのような特殊無線機から、怪力電波(殺人光線)、風船爆弾、諜報機材、それにおぞましい生物兵器などの研究が行われていたという。電波通信にかかわった技術者として、研究内容にはおおいに興味をおぼえたが、科学技術は戦争によって発達すると言われる。使い方、目的によて民生の向上にも、殺戮兵器にもなってしまう現実をあらてめて振り返る機会ともなった。
 最初に「動物慰霊碑」に案内された。高さ3メートルという大きな石碑で、裏には研究所長だった篠田中将(工学博士だった)の名がある。動物の慰霊碑としては大きすぎるので、人体実験も行われていたのではないかと。防疫給水部731部隊の協力もあったと。

Noboritolabo 写真:陸軍の星のマークがある消火栓
 構内に2基残っている。

 風船爆弾は和紙をこんにゃく糊で張り合わせた純国産資源を使った兵器。名古屋陸軍工廠で風船の製造検査に当たっていたという方が、体験談を話された。私も茨城県大津港の海岸で、風船爆弾を放った場所を訪ねたことがあり、興味深く聞くことができた。

 終戦直前には研究施設の一部は長野県や福井県に疎開を始めていた。いずれにせよ、現在は木造、コンクリートの建物が数棟残っている(一部は明治大学が利用しているが)程度で、具体的な遺跡として「ぶつ」があるわけではない。この敷地全体が「登戸研究所」の戦争を思い出す遺跡としての意味はある。

(訪ねた日:2007年12月1日)

2007年7月 7日 (土)

甲府の空襲

 52年前な昨晩、1945年7月6日の夜に、山梨県の県庁所在地甲府市が米B29の爆撃を受けた。前年の4月から父母の故郷であった甲府盆地の東寄りの農村地帯に疎開していて、この空襲を眺めていた。幸いにも私は直接の空襲には遭遇してはいない。

 夜のことで空襲警報が鳴てっも、今夜も上空をB29の編隊が通過して京浜地帯に向かうだけではないかとたかをくくっていた。そのうちに遠くで焼夷弾がはじける音が聞こえ、爆音は通り過ぎずに頭の上で鳴り続けている。これは近いと飛び起き、防空頭巾を被って外に出た。
 家の前から西の方を見ると、甲府の空が真っ赤に燃えているではないか。爆音と焼夷弾のはじける音が怖くなり、震えてきた。門の前の使い川(農村には田畑の灌漑と生活用水を兼ねて家々の前の小さな小川が流れていた)に架かる石の橋の下に隠れるようにと大人たち命ずる。

 甲府の市街地は10キロメートルほど離れている。自分の頭上に降ってこないと思うと、好奇心が先にたつ。焼夷弾はB29の弾倉から離れてしばらくすると、束になっていたものがバンドを弾き飛ばして数十発に分かれる。それが真っ暗な夜空に打つ上げられた花火のように見えるのだ。橋の下に隠れることも忘れて、怖さに震えながらも、その光景を眺めていた。
 頭上から降り注がれる焼夷弾と、燃え上がる家屋の中を逃げ惑っていた市街地の人たちが沢山いたのだが、そして沢山の人々が亡くなったのだが、遠く離れた高いところからはきれいにも見えたのだ。
 実際に空襲に遭われて亡くなったり、逃げ惑ったりされた方々には申し訳ないが、また不謹慎な話でもあるが、空襲とは真下におられた方々と周辺の人たちとは、こんなにも経験が異なるのである。
 翌日になるとリヤカーを曳いて罹災地に赴き、焼けて膨らんだ缶詰を取り出してきたという話も聞いた。

 5月ころまでの京浜方面など社会的機能や人口が集積している地帯の爆撃が一段落すると、米軍は日本本土の地方都市の爆撃に移った。昼・夜の区別なしに、こんな小都市までもと思われる場所にも空襲の魔手は広がっていった。
 戦略的な目的も感じられない。甲府の場合でも、市の北方の山に近いところにあった歩兵49連隊が爆撃されたのか事実関係を掴んではいないが、周辺の市街地は焼け残っていた。当時は連隊の主力部隊は外地におって(レイテ作戦に中国本土から転戦させられ全滅している)、留守を守る東部63部隊とよばれていたが。戦後、兵舎の数棟は大学の学生寮として利用されている。

 一般市民が住む市街地、住宅地が爆撃されていたのだ。無差別都市爆撃は終戦の前日までも続けられていた。

 

2007年2月 3日 (土)

下呂「回天」記念碑

 飛騨の国は岐阜県下呂に旅したとき(2007年1月24日)に、市内を散策して合掌村を訪ねた。民芸の郷、ふるさとの杜と山を登る形でいろいろな館を覗き歩き、上の出口から出た。
 すぐそばの美濃信貴山という寺の参道を登り、町の中からもよく見えていた平和の塔にたどり着いた。山道を登った主な目的は、平和の塔の上にある「人間魚雷回天」の記念碑を訪ねることであった。観光案内所でもらった下呂温泉観光案内図を見て、回天の碑なる文字が目に止まったからだ。

 なんで下呂に回天の記念碑が?と。信濃の国は長野県佐久市にある回天記念碑を訪ねたことがある。あちらは回天開発の主唱者である仁科関夫海軍少佐の出身地であった。下呂は? 碑文を読んで、もう一人の主唱者であった黒木博司少佐(海軍機関学校出身)の出身地が下呂だったのだ。海中をゆく人間魚雷「回天」による特攻攻撃を主張したのが、いずれも海のない国の信濃(長野県)と飛騨(岐阜県)を出身地とする海軍将校だったのは偶然か。

 一群の回天記念碑は一度に設置されたものではないようだ。大きく右書きで回天とある碑の裏にある碑文は、必死の特攻兵器開発へと突き進んだ2人が心酔していた平泉澄が涙と血で書いた(泣血拝書)文が刻まれていて、そこには昭和39年春とある。
 隣に建つ碑の表には回天で体当たり突入127、訓練殉職17、計144柱の名前が「回天殉道忠士として刻まれている。その裏面に刻まれた回天会としての碑文には、昭和55年5月とある。

Gerokaiten_1  一番手前に、回天の10分の1縮尺模型図を刻んだ黒御影の碑が横たえてある。佐久の記念碑の脇には4分の1に縮尺した鉄製の模型が陳列されていたが、下呂では模型図だ。しかし内部の構造や搭乗員の姿勢もよく理解できる図である。
 こんな姿勢でたった一人、コンパスと特眼鏡(潜望鏡)だけで海中を潜航しながら敵艦に近づくのだ。出撃した以上は絶対に生還できない。文字通りの人間魚雷であった。

 飛行機特攻やモーターボート(震洋)特攻では、最後まで(そこまで生き延びていたとして)相手を見つめながらぶち当たれるのだが、回天はいたって心許なく、必殺ではなく必死の特攻兵器であった。この回天要員として千余名の若人が訓練を受け、出撃していったのだ。

 模型図の下に回天の要目も刻まれている。それによると--

  全長:14.75m  直径:1.0m  全重量:8.3t
  搭乗員:1名    頭部炸薬:1.550kg
  推進装置:93式魚雷  燃料:灯油・酸素

     水中速度           航続距離
   10ノット(18.52km/h)  78.000m
   20ノット(37.14km/h)  43.000m
   30ノット(55.56km/h)  23.000m

  模型図の右に刻まれた東海回天会有志一同の碑文には、昭和62年3月とある。この一群の碑は、「楠公社・合祀回天殉道忠士」とあった。

2006年12月 8日 (金)

太平洋戦争開戦の日

 今日は65年前に日本が太平洋戦争を始めた日である。日本時間の1941年12月8日朝7時のラジオニュースで日本国民は「西太平洋において米英蘭と交戦状態に入れり」と大本営発表を知らされた。私は国民学校2年生、しかしその時の状況をはっきりとは覚えていない。
 あの時から65年が過ぎた。今日の新聞やテレビ・ラジオなどマスコミでは、あまり大きくは取り上げられていない。8月15日の終戦記念日における戦没者慰霊集会などの報道と比べると、その違いに淋しさを感じてしまう。現代の多くの日本人には、あの日のことなどほとんど忘れ去られてしまっているようだ。戦争を知らない世代だけでなく、辛く苦しい戦争を体験してきた人たちでも、「この日は何の日」という意識は薄くなってしまっているのだろうか。
 戦争が終わったということは、その戦争を始めた時があったということを忘れてはならないと思う。あの戦争はなんだったのか、戦争を始めた記念日(だけではないが)にじっくりと考える時としたいものである。

 7日(ハワイは日付変更線の東側、あの日は現地時間7日の日曜日朝であった)、真珠湾奇襲攻撃を受けたハワイでは「A Nation Remenbers(国民は覚えている)」を合い言葉に集会が持たれたという。そのシンポジウムには生き残りの米国退役軍人が集まったのだが、日本海軍の攻撃隊に加わった元兵士たちも参加したという。
 米国はRemember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)を標語として態勢を立て直し、3年8ヶ月後には勝利を勝ち取ったのだ(日本は負けたのだ)。シンポジウムに参加した日米の元兵士たちは、互いの健闘を称え合うかのように「和解」の握手をしたとも報道されていた。

 だが、オアフ島近くの海底には、1177人の乗組員が眠る戦艦アリゾナが沈んでいる。戦友のことを思うと握手は出来ない元兵士もいると。
 観光でハワイを訪れる日本人は多い。ワイキキの海岸には沢山の日本人が海水浴を楽しんでいる。しかし、そこからバスで約1時間のアリゾナ記念館を訪れる人は少ないようだ。
 海底に沈んだままのアリゾナの近くには、1945年9月2日に東京湾上で終戦の調印式が行われた戦艦ミズーリも係留されている。太平洋戦争の始めと終わりを象徴する記念物が並んでいる。

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 【捨身説明】右の白い平らな建物がアリゾナ記念館、左が戦艦ミズーリ

 戦争というものは、被害にあったことは永く忘れずに覚えているものだが、被害を与えた方は記憶から薄れてゆくものなのだろう。

 オーストラリアのシドニー港外から特殊潜航艇の沈んでいるのが発見されたとの報道もあった。真珠湾奇襲攻撃には空からの航空隊によるものだけでなく、2人乗りの特殊潜航艇5隻による特別攻撃隊も参加していた。
 翌年の2月には、同じ特殊潜航艇による攻撃がシドニー港にも行われた。この時には攻撃隊が発射した魚雷により、若干の被害(戦果)を与えている。3隻が参加したが、その内の2隻は発見され、収容された乗組員の遺体はオーストラリア海軍の手で丁重に葬られたという。艦体は今でも戦争博物館に展示されているらしい。
 残りの1隻が、ダイバーによって発見されたらしいのだ。

2006年9月18日 (月)

戦争の開始と終結

 9月18日が月曜日なのに休日、何の日? 敬老の日だという。息子、娘の二人とも結婚していないので、私ども夫婦には孫がいない。お小遣いを用意する心配はないが、「おじいちゃん!」などとあどけない顔が訪れてこないのも少し淋しい気もする。

 75年前の1931(昭和6)年9月18日、当時満州と呼ばれていた中国東北部の奉天郊外柳条湖で、満鉄の線路が関東軍によって爆破された。これをきっかけに関東軍は満州全域へと戦火を広げて行った。満州事変の始まりであった。
 1937(昭和12)年7月には北京郊外の廬溝橋にて日中衝突が発生、これが日中戦争(当時は支那事変と呼ばれた)へと展開して行く。あの広大な中国大陸で泥沼の戦闘状態が続く。
 1939(昭和14)年の夏には満州と蒙古との国境付近でノモンハン事変も発生。この戦いで日本軍は手痛い敗北を喫する。

 1941(昭和16)年12月8日には日本陸軍がマレー半島に敵前上陸、海軍航空隊が真珠湾を奇襲、米英蘭に対しても戦端を開く。時は日本時間12月8日未明、日付変更線の東にあるハワイは7日の日曜日の朝であった。この時点ではワシントンで日本側の最後通牒が米側に手渡されていないという失態が発生していた。
 1945(昭和20)年8月15日、日本はポッダム宣言の受諾。続いて9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリ号艦上にて降伏文書への調印式が行われた。
 これで太平洋戦争(大東亜戦争と呼ばれていたが、アジア・太平洋地域を戦場とした戦争だった)が終わった。わが国にとっては満州事変から数えて足掛け15年にわたる長い戦争が終わったのだ。この小さな国が、全世界を敵に回してよくもこんなに長い年月、戦争を続けていたのは驚きである。

 硫黄島や沖縄での玉砕、国内の主要都市を爆撃されたうえに広島・長崎に原爆を投下された。その絶えがたき苦しみは忘れられないが、戦争が終わったという安堵感も大きく人々のうえに残されてきた。
 しかし戦争が終わるということは、いつかどこかで戦争を始めたという事実があることを忘れてはならない。8月ジャーナリズムとか呼ばれて新聞やテレビでは特集記事、番組の放送が大々的に報道される。しかし太平洋戦争を始めたのが12月だとの意識は薄いような気がする。ましてや9月という月のことは忘れ去られているようだ。

 ハワイのオアフ島、パールハーバーのフォード島岸壁近くには日本海軍航空隊の奇襲攻撃で沈められた戦艦アリゾナと、東京湾上で降伏文書の調印式が行われた戦艦ミズーリが並んで保存されている。
 日本人にとってあの戦争はなんだったのか。戦後61年が過ぎた今でも、9月になるとそのことに思いをいたす必要を痛感している。再び戦争に出会わない、いや起こさないためにも。

2006年8月17日 (木)

8月15日の思い出

 61年前の8月15日は晴天の暑い日であった。朝からラジオ(当時はNHKだけ)が正午に重大な放送があるから聞くようにと、全国民に注意を呼びかけていた。
 私は前年の1944年4月から、妹と一緒に東京世田谷から山梨の親の実家に縁故疎開をしていたが、その年の春からは母も疎開して来た。夏休みだったし猛烈な暑さだから家にいて、朝からラジオの調整に余念がなかった。ラジオの調整係りは私の担当で、当時は電源電圧も変動が激しく、4球再生式ラジオの再生状態がすぐ変わってしまうのだ。スピーカーからはピーピーという音が出てしまう。

 お昼に家族がラジオの前に揃った。祖父母、母、妹、姉の6人。東京の女子大数学科に在学していた姉は、勤労動員で陸軍参謀本部に出向いていた。参謀本部が長野県松代に移って篭城することになり、これが最後になるだろうから親に会って来いと言われて、前日から来ていた。
 私の調整が上手だったのか、ピーピー音に混じって天皇陛下の声は何とか聞くことができた。難しい言葉が多くてはっきりとは聞き取れなかったが、大体の趣旨は理解できた。ともかく戦争は終わるのだと。
 その時の感想は? これで戦争が終わった。それも負け戦だったようだ --ぐらいしか覚えていない。わが家は農家ではないが農村地帯にあり、親戚や近所の心使いもあってなんとか食べてはいた。かぼちゃやジャガイモ交じりのご飯(千切り大根で量を増やしていたが)、とうもろこしの粉を野菜と一緒に熱湯でねりあげた「おねり」、小麦粉で作る「おほうとう」(いまや郷土料理の代表格として専門店まであるが、農家の貧しい夕食のひとつであった)などが主食である。直接の空襲にもあわなかったので、農村の子供たちには戦争の逼迫感はすくなかったのだ。国民学校6年の夏のことだった。

 困ったのは姉だ。上官の命令で数日の帰郷をしていたのに、今後の行動を問い合わせる相手がつかまらなし、どこへ出向いたらよいのか。なにはともあれと、翌日には東京へと帰っていった。

 軍国少年だった当時の学童の生活、農村での体験、当時の食糧事情、2学期になって教科書の一部を墨で塗りつぶした話とか。別稿で書き留めておくつもりである。

(15日当日は小泉首相の靖国参拝問題で感想を書いたので、この稿は2日遅れとなった)

2006年8月15日 (火)

61回目の敗戦記念日

 太平洋戦争を無条件降伏で終結した日から61回目の記念日を迎えた。過酷だった戦場あるいは銃後を奇しくも生き延びた人たちは、どのような気持ちで今日を迎えたのだろうか。靖国神社を日本国の首相として公式参拝する小泉首相の姿を、テレビやラジオは朝から詳細に伝えていた。国内外の反対を押し切っての首相の行動だけに、マスコミが大騒ぎするのも分からない訳ではないが、それにしても報道姿勢は過剰すぎたのではないかと感ずる。記念日当日に参拝した事実を報ずるだけでよいだろうに、官邸を出てから参拝して戻るまでを空撮も織り交ぜて追い続けるなんて、小泉のパフォーマンスを宣伝するのに熱心過ぎやしないか。

 戦地へ赴いた兵隊さんたちは戦死は覚悟の上、死んだら靖国神社に祀られることを名誉と思いながら出征して行ったと思う。戦場では「靖国で会おう」が合言葉だったと振り返って語る体験者が多い。だけど、本心は生きて父母や愛する家族の元へ帰還したいと願っていたのだ。
 靖国神社は、「天皇の軍隊」に国民を駆り立てる道具の一つであったと思う。当時国民学校の生徒であった私もいっぱしの軍国少年であり、大きくなったら兵隊さんになって国のために決死の覚悟で戦場に赴くのだと信じていた。しかし、戦後になって満州事変から太平洋戦争までの戦争はわが国(国民)にとって何だったのか。それまで知らされていなかった事実を学ぶにおよんで、侵略戦争のなにものでもないと分かってきた。敗戦間際まで、ほとんど「外地」での戦争だった。
 戦死者は靖国に祭られると同時に、自分の家の墓地にも墓石は建てられている(兵士たちの多くは遺骨も帰ってこなかったが)。戦死者の遺族はそこで慰霊の営みを続けてきた。ちょうどお盆さんの時期であもる。ほとんどが神式ではなく仏式の慰霊であろう。他の信仰による慰霊も行われてきたに違いない。それが国民を代表する政府の首脳たちが神式の場に参拝することで、国としての慰霊の責を果たしたと言うのはおかしい。

 東京裁判でA級戦犯に問われて刑死した人たちも合祀されてしまっている。東京裁判は戦勝国による裁判ではあった。しかし、当時に日本国民は自らあの戦争を起こし、300万以上の国民を死に追いやった戦争責任を問うことをしてこなっかた。敗戦による生活苦のなかで、自らの糊口を保つことで精一杯だったのだ。
 戦後の生活苦から立ち直ってみると、経済発展に全エネルギーを注ぎ込んでしまい、戦争責任の問題や対戦国、特にアジアの近隣諸国との戦後処理に無関心であったのではないか。血税を使った相当な額の経済的な戦後賠償をしているのだが、侵略を受けた国々の国民相互の心の戦後処理には心が行きとどかなっかと思う。
 その点、同じ同盟国であり戦いに敗れたドイツの戦後処理は、鮮やかだったと感心する。国内はもちろん、対戦国に対しても国をあげて対応したように見える。

 

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