私の9・11の思い出
2001年9月11日のニューヨーク・マンハッタンのワールド・トレードセンター(WTC)テロ事件は、関西空港近くのホテルの部屋でテレビを見て知った。青年海外協力隊の一員としてモンゴルに派遣されていた娘に会うために、翌日の飛行機でウランバートルへ出発する前の夜の出来事であった。
ホテルのロビーで、翌日からの旅行で一緒になる方と初めてのご挨拶を終え、自分の部屋に戻ってテレビのスイッチを入れた。すると画面はニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)が映っていて、高層階から黒煙がもくもくと出ている。すると一機、旅客機が別の棟に飛び込んでくる。その瞬間にはビルの反対側にも、押し出されるように煙が飛び出してきた。これが自爆2機目だった。
見ている間に、あの高層ビルが横倒しではなくグズグズと下層から潰れていくではないか。続いて隣のビルも同じようにして潰れてしまった。
画面は変わってワシントン郊外の米国防省ビル、ペンタゴンの一角にも旅客機が飛び込んだ現場がう映し出されてくる。いずれも離陸したばかりの旅客機がハイジャックされて自爆したのだとアナウンス。
同時多発の突発事故の映像をリアルタイムで全世界に向かって中継放送ができるなんて、さすがメディアの発達した米国だわい--と感心もしたが。それもあのように絶好なカメラアングルで捉えた映像をだ。なにか予定されていたイベントを放送すべく、取材班が待機していたのではないかと勘ぐる気持ちでテレビの画面に吸い付けられてしまっていた。
あのWTCビルには思い出もあった。最初は1981年3月のことだった。私にとって最初の海外出張でニューヨークへ出かけた。国際通貨の為替情報など金融情報のリアルタイム情報サービスを扱っていたテレレート社編集室を訪れ、女性の編集長と握手をしたらパチンと手から火花がとんだ。ニューヨークの冬はそんなに空気が乾いていることを知った。何階だったか忘れたが、窓からの眺めから相当高い場所だったと思う。
2回目は100階より上の階だったが、そこで日本語による情報サービス商品の発表会を手伝ったことがある。その階に行くのには、途中でエレベーターを乗り継がなければならなかった。
WTCの地下からは、ハドソン川の対岸のニュージャーシー州に通ずる地下鉄が出ていた。ハーバーサイドと呼ばれた地区にあった金融情報サービスのコンピューターセンターに行くのには、その地下駅を利用していた。
それら自分が足をとどめたことがある場所が、一瞬の間に壊滅してしまったのを目の前に見せ付けられたのだ。呆然としてテレビの画面を見つめる私を、脇にいた妻がテレビ画面と交互にこれも感無量な顔をして眺めていた。
翌日の関西空港での出国検査は厳しかった。ザックの底にナイフのようなものがあるといって全部中身をひろげさせられた。それは折りたたみ傘だと判明して無事に通してくれたが。
モンゴル滞在中に、ショートステーに預けた95歳になる母がクモ膜下出血で亡くなったと息子から娘あてのメールで知った。と知らされても、週一便しかない空の便では、予定通り一週間の旅程をこなしてからでないと帰国できなかった。葬儀を待たせて、大阪から東海道新幹線の静岡、身延線特急へ最後の接続で、深夜に山梨へ帰り着いた。
あれから5年が過ぎた。国際テロ殲滅を唱えるブッシュ米国の対テロ戦争がアフガニスタン、イラクへと、イスラエルとヒズボラとの紛争へと、日本も引き込まれて世界に戦火は続いている。


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