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-天気予報コム-

2009年7月31日 (金)

「剣岳 点の記」を観た、読んだ

 立山連峰剣岳、陸軍参謀本部陸地測量部が作る日本の地形図で最後まで空白だった山岳地帯、だったのだ。そこを測量のため陸地測量部から派遣される測量隊苦闘の記録である。かっては山登りも楽しみ(低山徘徊組だが)、地形図マニアでもある私にとって、見ておかなければならない映画であった。これは見終わってからの感想だが。
 近くに住む石川氏を誘って、MOVIX橋本までバスで出かけた。開演5分前までロビーで待たされたが、エスカレーターを登るとすぐ前のステージが今回の上映室。数百人分の観客収容力があるように見えたが見渡したところ2、30人ほどのお客さんだった。

 宣伝映像が長く続いたあとで、やっと本番が始まる。参謀本部陸地測量部の門の前のカットから。
 測量手柴崎芳太郎が陸地測量部長(少将)の部屋へ、部長から前人未登の剣岳登攀と付近一帯の測量を命じられる。部長は秀吉??NHK大河ドラマ「天地人」の見過ぎか。科長(中佐)や班長(大尉)たちが立ち会うが、彼らの階級を知るのは後で読んだ「プログラム」でだ。時代は明治40年前後、当時の日本陸軍将校は階級章を付けていなかった。

 山岳信仰の聖地の一つである立山でも、剣岳だけは「死の山」として立山仲語(立山案内の先達)たちは近づかない。信仰登山とは関係が薄い集落の人たちが測量隊の案内やボッカ役を担うことになる。途中で出会う修験行者の謎に満ちた助言を受けたりしながら、前人未到の険阻な山岳地帯を風雪の自然現象とも戦いながら、ついに剣岳頂上に達し、四等三角点を設ける。「針の山」とも言われていたこの山頂に、60Kgを越える標石を運びあげることは不可能だった。
 それからが本番の仕事だ。前哨戦として付近の山々の頂に設置してきた三角点を再度訪れ、相互の方位角、標高差などの測量に入る。途中で出会い、剣岳初登攀を競った山岳会のリーダー小島烏水に「われわれは山に登るのが目的だが、測量隊は登ってからが仕事だ」と言わしめる。

 苦労を重ねて剣岳初登攀かと感激しながら山頂の回りを見渡すと、修験道の行者が使う銀杖の頭と錆びた剣を発見する。人類未踏の頂ではなく、古の修験者がこの頂に到達した形跡がそこにあった。
 芝崎からの登頂成功の報告電報にこのことが付記されていたのを見た陸地測量部長は、それまでの初登攀に執着していたのにすっかり興味を失ってしまう。地形測量ではなく、「初登攀」が最大の関心事だったのか。

 山岳映画なのにヘリコプターなどの空撮を用いず、すべて現地実写だという。晴れにしろ嵐にしろ、立山連峰から北アルプス連山を見渡すあの感動あふれる映像は、私の胸にも深く刻み込まれた。
 感動が消えないうちにと映画館を出たその足で、橋本駅近くの本屋で新田次郎著「剣岳<点の記>」(文春文庫)と、5万分の1地形図「立山」「黒部」(国土地理院)を買い求めた。
 剣岳山頂には三角点2997.1mのすぐ西に、標石のある基準点2999mが表示されている。文庫本の方は、7月30日(これを書いているうちに昨日になってしまった)に読了した。

 案内人リーダーの宇治長次郎が初めて剣岳山頂に立ったのが明治40年7月13日だったという。映画を観たのが記念すべき日だった。

2007年1月20日 (土)

硫黄島の映画を見て

 映画「硫黄島からの手紙」がゴールデングローブ賞の最優秀外国語映画賞を受賞したという。
 私も観ました。市内に住むDIG(戦争体験を掘り起こす会)会員のI氏を誘って、「硫黄島からの手紙」を1月8日に、「父親たちの星条旗」を9日にと二日続けて、橋本のMOVIXなる映画館の集合ビルまで出掛けました。

 米軍の本土上陸を出来るだけ先に引き延ばさせるために、硫黄島の守備隊はバンザイ切り込みによる玉砕を禁じて最後まで1兵まで、1人でも多くの敵兵を倒すことを命じられた。亜硫酸ガスが吹き出す洞窟陣地で、飲まず食わずで1と月半も粘った日本軍の抵抗に、五日で攻略できるとふんで上陸した米軍に大きな損害を与えた。悲惨な戦闘の様を、鬼気迫る映像で再現して見せてくれた。

 擂鉢山の頂上に立てた星条旗の物語は、ワシントンのポトマック川の中州に建てられている像で有名である。「父親たちの星条旗」は、その旗を立てた六人の海兵隊員が主人公なのだろう。米軍の都合で立て替えられた話になっている。二回目の作業をAPのカメラマンが撮影した写真がモデルだという。「やらせ」との噂が広がって行く。

 映画を見た次の日に「十七歳の硫黄島」(秋草鶴次著、文春新書)を買った。市内の書店を探すと売り切れ状態だったが、3店目で買えた。
 「硫黄島からの手紙」はあの戦闘を生き伸びた陸軍の若い兵士である西郷が見た硫黄島攻防戦のストーリーだが、「十七歳の硫黄島」は著者、秋草鶴次氏が海軍少年通信兵として実戦を戦い抜いた手記である。これを読むと、二本の映画はほぼ忠実に戦闘の模様を再現しているように思われる。クリント・イーストウッドは秋草氏の話を聞いてから映画を作ったのかと思ってしまうくらいだ。

 秋草氏の手記によると擂鉢山の星条旗は日本軍によっても二回、日章旗に立て変えられている。全滅したと思われた擂鉢山の陣地には日本兵がその時まで残っていたのだ。最後に残った旗は4本目なのか。
 そう言えば、「父親たちの星条旗」の原題は「FLAGS of our FATHERS」とFLAGは複数である。

 姉の主人の兄は、陸大を卒業して直ぐに硫黄島に参謀として派遣されている。新婚早々だった家族は、1945年の正月に彼を送り出したのが最後だった。そして2月19日に米軍が上陸した。玉砕に参加するために派遣されたようなものだった。

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