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-天気予報コム-

2009年6月27日 (土)

三崎の魚市場を見学

 「雨は降る降る/城ヶ島の磯に/利休ねずみの/雨が降る・・・・」と北原白秋が詠った城ヶ島の磯に建つホテルに泊まったというのに、夜の宴会でカラオケにこの歌を選んだものがいなかったのは残念。
2009_06250050_2  翌日はホテルの送迎バスで城ヶ島大橋を渡り、魚市場を訪ねた。同乗の相客4人の方々には迷惑だったかもしれないが、漁港の中をドライブするのも珍しかったかも。
 3階建てに見える魚市場の2階は見学コースになっている。白く凍った冷凍マグロが床いっぱいに並べられ、その間を係の人たちが働いている。マグロは黒い魚だと思っていたのが。岸壁には数隻の遠洋マグロ船が横付けされていたので、水揚げされたばかりのものもあるのだろう。さっきのバスの運転手氏のはなしでは「焼津から陸を泳いできたのもあるのでは・・」と冗談話もあったが。

 電ノコで尾の部分を切り離していた。その断面が上を向くように、本体の脇に転がしてある。プロはそれを見ただけで、善し悪しが分かるらしい。セリではなく、入札なのか、予想していた威勢の良いかけ声は聞こえてこない。仕入れたマグロは、そばまで乗り入れてある車に載せていく。
2009_06250052_5  10時半のセリ終了間際だったためか、日本で一・二を競うマグロ市場としては、少々物足りなさを感じる扱い量ではあったが。
 ご一行様とは一足さきに見学コースを離れ、建物の1階にある三浦三崎郵便局にてご当地訪問の記録を貯金する。
 少し離れた産直センター「うらり」の中を、冷やかしながら散策する。お土産を求めた仲間もいたが。岸壁には大分県海洋高校の実習船などが繋留されていた。
 早い昼食でもと近くを歩いたが、メニューはマグロばかり。多少食傷気味なので遠慮する。バス停で、近くの小山の上に立つお寺を参拝するという仲間の荷物番をしながら、しばしの休憩。路線バスで三崎口駅へ。観光客を中心に結構ギュウづめに乗っている。

 帰りは金沢文庫駅にて仲間と別れ、逗子線に乗り換えて新逗子へ。逗子郵便局を訪ねると、窓口嬢は「明日からアロハに着替えます」とのこと。明日は逗子海岸の海開きなのだ。
 JR逗子駅前で、乗り場ごとに運転手氏に地図を見せながら郵便局付近を通るか聞くのだが、ちょと無理か。3番目の乗り場が良いだろうとの助言あり。海岸通り経由の葉山・一色行きのバスに乗る。
 海岸通りというのは狭い道だ。マリーナーとか海水浴場とかが並ぶ海辺の道路である。右手に郵便局を見つけた運転手氏が教えてくれる。森戸海岸バス停から少し戻って、葉山堀内郵便局に寄る。ホリウチと読む地名だ。手持ちの地形図にある位置とは異なる。昨年に移転したばかりだという。

 この日は、逗子市と三浦郡(葉山町)と郵便局を訪ねた。これで神奈川県下の20市7郡すべてを訪ねたことになる。昨日の金沢文庫は横浜市金沢区で、特別行政都市の「区」も1つ増えたわけである。

=訪れた日:2009年6月25日=

2009年6月26日 (金)

金沢文庫を短訪

 高校の同級会で三浦半島突端、城ヶ島のホテルへの旅行会が設定された。私も幹事団の一人ではある。
 横浜線を横浜まで、乗り換えた京浜急行線は金沢文庫止まりの各駅停車だった。先頭車の一番前の席に座り、ワンハンドル制御(1600系)の運転を眺めながら前景を楽しむ。京浜急行線は東京近郊には珍しいトンネルが多い線区である。トンネルの間に駅がある感じ。
 この列車の終点、金沢文庫駅の西口へ出る。バス乗り場を右手に回ると、大通りの一つ手前の道を少し入ったところに金沢文庫駅前郵便局がある。駅前広場に戻って、地下道をくぐり、国道に架かる歩道橋を渡ると、これも小さな金沢文庫郵便局あった。

 国道を駅へと戻るため歩道を歩いていると、「金沢文庫へ700メートル」との表示が目にとまった。今日の集合時間までには余裕があるので、寄り道しようと角を曲がる。自動車は一方通行の狭い道を、片側だけに緑色の塗装があるところを歩きはじめる。途中で追い越しがてらに声をかけた男性も、行き先は同じだという。
 ホテルでの会合だというのでジャケットを着てきたのが失敗、日は照っていないものの暑さと湿度の高いのには往生した。出会ったご婦人に聞くと、"あと2~3分で赤門が見えてくる”とか。さらに進むと、左へ曲がる角に、近道と案内が出ていた。そこからでも3分ほどは歩いたか。

 入ったのは裏口だったのか。65歳以上は無料だと(7月1日からは1コインの100円になる)。受付でバスの時間を教えてくれたが、それまでに20分足らずの時間しかない。1階は仏像が多く展示されている。
 案内によると、鎌倉時代の北条時実によって創建された、武家の書庫なのである。その後も代々の人々によって受け継がれて膨大な書籍を残したのだという。鎌倉幕府の執権を受け継ぐ、金沢北条氏の支流で、武蔵国六浦庄金沢に拠点をおいた一族なのだ。
 現在は、神奈川県立金沢文庫となっている。

2009_06250044  2階では、横浜開港150周年記念の企画展として、「中世の港湾都市六浦」の展示がなされていた。主に古文書ばかりで、急ぎ足で回るにはその説明文を読んでいる余裕がない。ただ、旧陸軍が撮影した六浦周辺の空中写真が気になった。現在の地形図を較べてみたかったのだ。
 あとでゆっくりと読みたいので、今の企画展と、数年前に行われた企画展「最後の神奈川奉行・依田伊勢守盛克」の図録を求めた。2日間にわたって2冊を持ち歩いたのが、難行の始まりであったが。

 正門をでると小さなトンネルを抜け、称名寺の庭園、山門を過ぎて赤門へとたどり着く。この寺も、時実が建立したという。寺の境内に、金沢文庫が建っているのだ。路線バスで駅へと戻る。久里浜行きの特快、さらに乗り継いで三崎口へと着く(久里浜からは一部を除いて単線区間だ)。ここで一同と落ち合おう段取りなのだが誰もきていない。全員がホテルからの送迎バスに間に合う時刻にぞろぞろと改札口を出てきた。参加者17名のクラス会となる。

=訪ねた時:2009年6月24日=
 

2009年2月27日 (金)

一関に泊まる

 平泉から一関まで戻る。駅西口を出ると近くに一関駅前郵便局がある。ここで予約しておいたホテルまでの道を尋ねると、親切に地図を書きながら、ホテルの少し先にも郵便局があるよとの情報も付け加えてくれる。お目当てのホテル前を過ぎて、一関田村町郵便局に立ち寄ってから「蔵ホテル一関」へチェックインする。
 中庭に立派な土蔵が建っている。オーナーは元質屋だったとかで、その質倉にちなんでホテルの名前になっているのだ。
 部屋の窓から下を覗くと、裏は市文化センターである。その脇に静態保存のSLが屋根に覆われて鎮座しているではないか。

2009_02200040  翌朝チェックアウトしてから裏口を出て、C58-103号機に挨拶する。レールの路盤が少し高いので、動輪の大きさが特に感ぜられる。所属は「関」とあるから一関機関区所属だったのだろうが、製造年や働いていた線区など、残念ながら説明板がないので一切わからない。
 市内を散策。大きな蔵が並ぶ一画があった。元は酒造業を営んでいた跡だとか。今は登録有形文化財で、酒の民族文化博物館として保存されているのだが、公開時間には早く中を見られなかった。
 一関郵便局へ寄ってから、駅へと戻る。駅前に立つ説明板を見て驚いた。昭和22年9月のカスリン台風、翌年のアイオン台風による洪水の水位を示しているのだが、いずれも人間の背丈よりも上にある。近くを流れる北上川や磐井川の氾濫によるものである。

2009_02200049
 大槻三賢人像も駅前に立っている。その一人は漢和辞典の編者として有名な人(だそうである)。残念ながら、そちらの方は知識が弱いのだ。

 = 泊まった日:2009年2月18日 =

2009年2月26日 (木)

平泉を散策

 またまた大人の休日倶楽部会員パス利用で南三陸方面の旅に出かけた。最初に足を下ろしたのが平泉である。
 東北新幹線を一関で下車、在来線ホームには約10分後の接続で盛岡行きの普通電車が待っていた。盛岡支社の701系2両編成である。
 二つ目の平泉で下車すると、駅前に中尊寺方面行きのバスが待っていた。三つ目の停留所が中尊寺前である。降りると目の前に中尊寺簡易郵便局がある。お店の右半分が郵便局になっている。ここまでは実に順調に来てしまった。さて-とあたりを見回すと、弁慶の墓なる記念碑が建っていた。

 中尊寺の入り口は月見坂と称する急な登り道である。今朝も雪が降ったのであろう。歩くところは箒で雪を掃き払ってある。それでも注意しながら登り始めた。季節的に旅行者は少ないようだけど、いく組かの観光客には出会う。
 あちらこちらと建っているお宮だかお寺だか判然としないところも立ち寄りながら、讃衡蔵(さんこうぞう)なる鉄筋コンクリート造りの建物にたどり着いた。社務所といった感じだ。窓口で金色堂と共通の参拝券を求める。

2009_02200013 【写真:中尊寺金色堂】
 新しい鞘堂に守られた阿弥陀堂=金色堂に入る。須弥壇には大きな仏像が脇持に囲まれて収まっている。その中には藤原清衡、基衡、秀衡の遺体と泰衡の首級が納められているという。柱や長押(なげし)は螺鈿細工と金箔とで蒔絵が施されていた。

 金色堂を出て、経蔵、古い鞘堂と巡り、讃衡蔵の中も拝観する。月見坂を下りながら、途中の義家庵にてそばで昼食とした。去年夏の地震では大きく揺れたが、家具の倒壊や建物に被害はなかったとか。
 バス停まで下りたが、バスは1時間に1本程度のダイヤだ。毛越寺まで歩くことにした。途中の郷土資料館は工事中とかで閉鎖中。

2009_02200026 【写真:池越に見る毛越寺本堂】
 観自在王院跡の広場を横切り、毛越寺へと進む。ここでも拝観料が要るのだ。数組の団体客が案内人に導かれて訪れていた。水鳥が遊ぶ池を中心とした庭園を一周、多くの寺院は火災に遭って焼失していたが、開山堂と屋根の頂に菊の御紋を配した常光堂の2棟だけ残っている。

 駅へ戻る途中で平泉郵便局を訪ねた。そこへの曲がり角にある東北銀行支店の建物は、いかにも平泉を象徴するような屋根構えであった。
 平泉駅の前にある郵便ポストも、上に厨子様の飾りが載っている。

=訪れた日:2009年2月18日(水)=

2009年1月24日 (土)

諏訪高島城を訪ねて

 安曇野での二日目は夜から雪が降り出し、翌朝は一面の白化粧に見えた。しかし積雪量は数センチと薄く、道路の走行面に雪は残っていない。折角のスノータイヤも効果を発揮する状況ではない。
 堀金の道の駅に立ち寄って地産野菜などを求めたあと、高速長野道に入らず国道19号を塩尻に向かって南下する。道の反対側に立派なビルの郵便局、丁度対向車も途切れていたので来客用の駐車場へ入れた。松本南郵便局だ。
 旅行貯金の手続きを待つ間に、ジョイント・クレジットカードの勧誘員が話しかけてきた。こちらが旅行者だとわかると、彼も「NHK大河ドラマの関係地・新潟県の春日山局出身だ」と。私も先月、直江津から長野への上越線で通過したところなので話がはずむ。

 国道20号に入り、寂しい道の駅でトイレ。塩尻峠を越えて下諏訪の町を通過、単線の中央線踏切の手前を右折。細い道だが感を頼りに諏訪高島城へ。感は衰えていなかった。「御城裏」という交差点の左を見ると突き当たりに小さな天守閣が。

034  武田信玄と諏訪頼重、それに湖衣姫と勝頼の故事にからむ城である。一度は訪ねたいと思っていたお城だ。城跡の西の隅に小さい天守閣が建っていた。入場料400円で内部を参観、諏訪氏の成り立ちから領内の紛争、信玄との戦いから徳川時代までと説明が続く。
 明治維新で取り壊されて、昭和44年に天守閣は再建されている。写真や図面が残っていたので、正確に再建されているという。冠木門が架かるお堀には氷が張っていた。

 城跡を辞して来た道を少し戻り、諏訪湖柳郵便局(湖柳=「こやなぎ」という町名)で記念の旅行貯金。湖畔道路に出ると交差点の正面にD51が静態保存されている。寒いのでSL鑑賞は次の機会にと、中央道諏訪ICへと急いだ。

= 訪ねた日:2009年1月22日 =

 

2009年1月23日 (金)

冬の安曇野を旅して

 冬の安曇野を訪ねました。予報は曇りということだったけど、ホテルを出かけるときに目の前の山がはっきりと見えるではないか。国営あずみの公園でも覗いてみるかとの予定を変えて、北アルプスの山並みを楽しむことに切り替えた。

 ホテル近くの有明山もうっすらと雪化粧をほどこして、目の前に聳え立っている。有明山を前山としてその奥に表銀座の山並みが控えているはず。広域農道まで下がればそれらも見えるはず。新しい道路にはきれいに整備されていて、道の脇に膨らんだ空き地がない。道路わきに車を止めて、落ち着いて山を眺めていることができない。
 広域農道だけあって、まわりは田んぼや畑が広がっている。そこには細めの農道があり、道から離れた集落へと通じる昔からの道もある。見晴らしがよい場所で、それらの道を探す。

009  写真は広域農道から少し脇にそれた細い農道からのショットである。北方に遠望される後立山連峰から正面へとパンした連続写真の一コマである。有明山の奥には、大天井岳(おてんしょう)から燕岳(つばくら)へと続く表銀座連峰の尾根が覗いている。手前にカメラを構えていた妻を写し込んでしまったのはご愛嬌である。高曇りなのでこの時点では雲も薄く、うっすらと青空も残っていて稜線もはっきりと見えていた。

 北の方には後立山連峰も遠望できる。もっと近づいて折角の景色を楽しもうと、大町の山岳博物館まで車を飛ばすことにする。山博の3階展望室からは、目の前に連なる雪をかぶった山々の眺めは感動的であった。正面に餓鬼岳とこぶ、右手には蓮華岳、さらに遠くに五龍のピークへと。天候は芳しくないが、それでも山の形状がはっきりと分かる程度だ。これが晴天だったらなアー、と。欲はかかない。今日は拾い物の一日だったのだ。

= 訪ねた日:2009年1月21日 =

2008年11月20日 (木)

相模女子大(旧陸軍通信学校跡)をたずねて

 今日も秋晴れの爽やかな(寒い)一日でした。妻と二人でぶらりと散策に出かけた。境川を渡り、森野団地を過ぎて坂の小道を上る。かっては素晴らしい桜並木がつづく相模原遊歩道を歩く。今は「じゅうがつさくら(10月桜)」が植えなおされ、小さな白い花をつけていた。4月と10~11月ころに花が咲くという。車が激しく行き交う国道16号を越えて相模原高校のグランドわきに出る。
 突き当りが大野南中学、相模女子大とキャンバスが並ぶ文教地帯である。女子大付属の幼稚園で通園バスを整備中の方に、どこかに「旧陸軍の通信学校跡地」である説明板がありませんか?と尋ねてみた。親切に教えていただいた通りに歩を進めた。

 女子大正門の受付で用件を話すと、構内通行証を渡され、すぐ前にあるのが旧通信学校の将校集会所だと説明してくれる。
 正門を入って右側にちょっとした公園風の植込みがあり、その先にそれが建っている。市の教育委員会がたてた説明板によると、建物は相模原市登録有形文化財であり、付属のフランス庭園は相模原市登録名勝である。登録されたのは平成15年4月1日と、最近である。説明板から:-

旧陸軍通信学校が当時の大野村に移転してきたのは、昭和13年から14年にかけてです。将校集会所の外壁は改装されていますが、外観は全体として当時の姿を良く残しています。
庭園は集会所に付設された庭園で、現存する洋風庭園として貴重であり、当時の優れた施工技術を知ることができます。

2008_11200056_2 【旧陸軍通信学校の将校集会所前景】

 フランス庭園をしばし散策、今は大学の第1本部棟となっている建物のまわりを一周する。窓から中を覗くと、廊下はリノリューム張りである。当時は板張りであったろうと思うのだが。
 中央の広間は机と椅子が並べられて教室風であるが、守衛さんの話では現在は使われていないという。説明板にも「室内は原則として見学できません」と注が書いてあった。

 旧陸軍の士官学校が昭和12年に東京市谷から相武台に移転してきていた。その練兵場が使えるということで、翌年から通信学校も杉並の国鉄中野駅近くから後を追うように、この地に移転してきたのだ。
 日中戦争からアジア太平洋戦争にかけて、この近くには相模造兵廠、兵器学校、機工整備学校などと、陸軍関係の各種施設・学校が作られた。相模原は軍都であったのだ。日本の敗戦後は、占領軍であった米軍がそれらの跡地を接収して利用していた。

 第1目的の見学を終わり、さらに散策を続けて相模大野五丁目郵便局で記念の貯金をする。これで旧相模原市内では1局を残すのみ。小田急線の相模大野駅に戻る途中で相模大野郵便局に寄り、妻の貯金通帳に局名印を押してもらう(もちろん貯金して)。私は訪問済み。小さな局だが、結構混んでいた。
 かっては通信学校前という駅名だった今は相模大野駅の駅ビルで遅い昼食。帰りは歩かずに、電車、バスと乗り継いで帰宅。それでも万歩計は10,482と表示されていた。

歩いた日:2008年11月20日

2008年11月15日 (土)

早川渓谷ドライブ

 甲府盆地は一点の雲も見えないお天気だ。山奥は紅葉が盛りだろうと、山梨県南巨摩郡早川町の南アルプス街道の紅葉狩りドライブに出かけた。国道140号から鰍沢で52号へ。富士川の右岸、堤防の上が改良されて走りよい道になっている。身延町に入り、西島の「なかとみ和紙の里」に立ち寄り、和紙のはがきなど求める。集落の中、旧道から少し西に入った西島郵便局へ。

 飯富を右折、早川橋を渡って県道73号「南アルプス街道」に入る。すでに両岸にせまる山は紅葉に染まっているが、頻繁に通るダンプに気を配っての運転なので、運転手はおちおちと景色を眺めているわけにはいかない。
 まず七面山口郵便局にて早川町の局に挨拶。風景消印ありで自宅あてに先ほど求めて和紙はがきを出す。窓口嬢によると、早川町には5局あるという。

008 【紅葉が迫る雨畑湖】

 街道を左折して細い山道に入る。雨畑川の崖上の狭い山道を対抗する車と譲り合いながら注意して運転。助手席の妻は怖がっていた。細いトンネルの入り口では、対向車がないか確認してから車を進める。
 雨畑湖(ダム)の近く、トンネルを抜けたすぐの二股を右折して硯石局に寄る。局舎の裏山の急傾斜は茶畑だった。二股へ戻り、「Villa雨畑」でそばとうどんで昼食とする。温泉に併設された施設である。

 南アルプス街道に戻って左折、いよいよ上流へと。奥地へ乗り入れる感じだ。次は早川局だ。さらに走って三里(ミサト)へ。この2局は新道から旧道へそれた集落の中にある。
 本道へ戻り、上流へ。早川を左へ右へと橋を渡り、いくつかのトンネルを通る。道路やトンネルはよく整備されていて走り易いが、一つだけ未改良のトンネルがある。入り口には「先に入った車優先」とある。幸い直線なので反対側の入り口が見える。軽自動車でもトンネルの中では交換できない狭さである。平行して新トンネルの工事が進んでいる模様だ。

 10数分走り、こんな奥地に集落があるのかと訝しくなってくる。でも道は良いし、たまに対向車がくるので安心はするものの、回りの紅葉を堪能しながら走る。やがて「南アルプス邑奈良田の里温泉」の案内と、数件の温泉宿が見えてくる。そのはずれに西山郵便局があった。ATMの保守点検中だったが、こんな山奥の局まで整備点検に回る担当者のご苦労に思いがいく。ここも風景消印がある。
 ここまでの局間は約8キロほどだが、最後の三里から西山局間は10キロ以上は離れている。
 西山郵便局からさらに奥地へ入ると、奈良田の集落がある。バス停があり、ここまで身延駅から路線バスが通じているのだ。途中で行き逢ってはいたが。
 南アルプス山岳写真館・白籏史朗記念館では南アルプスの山々とそこに咲く高山の花々の写真に見とれ、早川町歴史民族資料館を参観して昔の山仕事で生計を立てていた人々の生活を知った。

 このさらに奥に、山梨県営の西山発電所群があるのだ。1960年の中頃に開発が始まっていた。これらの発電所で得られた電力を売り、ミレーの「種まく人」などの名画を蔵することで有名な県立美術館が建てられたと聞く。

 高い山に囲まれた谷あいの夕暮れは早い。峯々の残照に名残を惜しみながら、下りの走りは快適だ。七面山口に戻り、町営の南アルプスプラザにてコーヒーで休憩。
 この日のドライブで6局を訪問、1280局を越えた。本日の走行距離は162km。

走った日:2008年11月14日

 

2008年10月25日 (土)

多摩送信所跡を探索

  町田市の北部、相原地区の歴史を訪ねる企画(まちだ史考会主催=町田市制50周年市民協働事業)に参加し、久しぶりにちょっとしたウォーキングを楽しんだ。JR相原駅から町田街道に沿って、主に社寺仏閣を訪ねるものだった。私の参加の主目的は、訪問先に「多摩送信所」という場所が含まれているのに興味を覚えたからである。
 行程の中間にあたり、お弁当を食べる予定地であった法政大学の敷地内にそれがあるのだ。
 法政大学が多摩キャンバス設置にあたって整備した「多摩送信所跡」の記念碑の前で史考会の方が説明され、KDDに勤めておられたO氏が補足された。碑にもその詳細が説明されているので、それを紹介しよう。

  多摩送信所跡
 第二次世界大戦末期に近い1944年(昭和19)、本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信所の建設が着手された。当時の東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地七万四千坪(244、000平方メートル)を確保し、高さ60メートルの木支柱を立て、空中戦6基を樹林にめぐらした。技術者、職員50名が勤務する局舎を点在させ、翌年4月竣工した。5月5日から操業を開始した。
 当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」および「東亜中継放送」があった。これらの対外送信は、1945年8月10日から15日の間、日本政府のポッダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした。政府の対外ルートとは別に、ポッダム宣言受諾に関するニュースを送り出したのである。
 ここにあたった「多摩送信所」も木造、手動による回転式アンテナから電波を送ることによって、ポッダム宣言受諾の際に重要な役割を担い、1946年11月10日、開設以来1年半で活動の幕を閉じた。本学の多摩校舎は多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構も確認された。ここにその事歴を誌し、永く後世に伝えるものである。
  1988年3月30日         法政大学

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【説明の碑とアンテナ木柱の基礎】

 当時、国際電気通信株式会社の送受信所として電話は送信所が茨城県の名崎と八俣、受信所が埼玉県の上尾、電信は送信所が栃木県の小山、受信所が埼玉県の上福岡にあった。空襲が激しくなる(と予想される)と、政府の命令でこれらの送受信所の一部機能を疎開することになる。1944年に足柄送信所、そしてこの1945年に多摩送信所であった。(KDD社史)
 広大な敷地に高いアンテナ柱が林立する送受信所であり、精密な空中写真で知らないはずはない。だが、なぜかこれらの施設は空襲を受けていない。米軍は攻撃する意図はなかったのか。

 1945年8月10日に政府がポッダム宣言の意向を固めると、それを知った同盟通信社の対外ニュース放送と日本放送協会(NHK)の対外放送はすぐにそれを速報した。NHKは2回で止められてしまったが。しかし、このニュースは全世界を駆けめぐり、ロンドン市内では大騒ぎだったとか。外地で戦闘中の日本軍も、(組織が保たれていた場合)軍上層部は通信隊がこのニュースを受けていて知ったが隊内には固く口止めされていた。

        =歩いた日:10月25日(土)、歩数:19,000歩=

2008年7月 2日 (水)

江戸東京たてもの園

 梅雨の中休みだった7月1日、小金井公園にある江戸東京たてもの園を訪ねた。私が小学校に入学した1940(昭和15)年は皇紀2600年だとして宮城(現在は皇居と呼ぶ)前広場で祝典があった。そのときに会場となった建物が小金井公園に移転保存されている。自分史のまとめで、そのことを記す一つの証拠資料として実物を確かめに出かけたのだ。

 小田急線の狛江から京王線調布、中央線武蔵小金井へと老人シルバーパス利用のバスを使った。まずはご当地訪問の記録として小金井郵便局にて貯金、通帳にはゆうちょ銀行小金井店と押されている。近くのバス停から関東バスで江戸東京たてもの園前まで乗る。

 お目当ての建物(旧光華殿)は江戸東京たてもの園のビジターセンターとして、この建物がで入り口となっていた。入場料400円。開園15周年の特別展「日本の建物」の第2部として、「建物と夏」と題する展示があった。懐かしいさを抱きながら、江戸時代から昭和を迎えるころまでの建物の模型が展示されていた。うちわを組み込んだ手回し扇風機が面白かった。

0010  写真:「だるまさん」こと、高橋是清が暗殺された2階の寝室。床柱には刀傷がのこっているとの説明あり。

 終戦直後には学習院の小・中学部がこの地にあって皇太子(現天皇)も学んでいたとか。ボランティア説明員の話では相当なわんぱく少年だったらしい。自分と同じ年なので、想像はつく。しばらくは説明員について歩いていたが、途中から”お先へ”とマイペースで園内を散策。2・26事件で陸軍の青年将校に暗殺された高橋是清邸では1階が軽食堂になっていて、田舎そばで軽くお昼とする。

 異色なのは都電7500形がおいてある。渋谷からの6系統を走っていたものとの説明。万世橋交番とか赤い1号丸型郵便差出箱、下谷消防署の望楼上部などもある。広い園内には由緒ある建物がいくつも移転保存されているので、1日がかりで散策したら面白いだろう。
 同公園の西口近くには、蒸気機関車C57や客車が展示されているが、いつもは公開されていない様子である。

 小金井公園西口からバスで武蔵小金井駅へ戻り、京王線調布、小田急線成城学園へと帰途もバス旅となった。歳のせいか、これだけの散策でも若干の疲れを感ずるようになった現実が寂しい。

2008年6月22日 (日)

岩手・三陸の旅

 6月18日(水)から2泊3日で、大人の休日倶楽部パスを利用して岩手県の三陸地方を旅してきた。岩手宮城内陸地震(6月14日発生)の後だけに一旦は取り止めも覚悟したが、現地に問い合わせると列車ダイヤを含めて大丈夫とのこと。素人が救援に駆けつけても役に立たないので、被害を受けた人たちには申し訳ないが予定通りの旅を決行した。
 新幹線「やまびこ45号」が一ノ関にて「はやて・こまち」を退避する間、ホームに降りると案内をしていた駅長氏が、窓を通して栗駒山の崩落状況が遠望できるのだがと教えてくれた。その時は曇っていてはっきりとは見えなかったが。

 新花巻で下車、釜石線で花巻へ出て市内を散策、あらためて釜石線を始発から遠野まで乗る。釜石街道に沿って走る。フォルクローロ遠野へ1泊。
 翌日も釜石線をさらに乗り継ぐ。途中の七倉トンネルで仙人峠を越えると有名なオメガループで、それまで喘ぐように登っていた110系気動車も下りは早い。右下に線路がちょっとだけ見えた。たこトンネルを出るとすぐ陸中大橋のホームだ。
 新日本製鉄釜石工場は、溶鉱炉の火は消えたがスチールワイヤの製造を続けているとの話を、喫茶店で会った人から聞いた。市内の人口は半分になったとも。

058  【写真:本州最東端の駅=山田線岩手船越にて】

 釜石から乗った山田線の宮古行き列車は、盛発の三陸鉄道南リアス線経由でやってきた。海岸線が見えるだろうと進行右側に席をとる。最初は山の中、太平洋に突き出た半島をいくつもトンネルで越えるので、ズーと海が見えているわけではない。
 岩手船越駅には、「本州最東端の駅」という看板があった。東経141度58分26秒だという。本州最東端の魹ケ埼(とどがさき)までは25km先、バスと徒歩で行くところ。宮古駅の観光案内所で市内のバス路線を聞いたとき、「本州最東端訪問証明書」を入手(\100)した。魹ケ埼(北緯39度32分48秒、東経142度4分21秒)は宮古市内なのだ。宮古郵便局でも「本州最東端のまち」と局名印に押される。

 岩泉線に入る列車までは十分に時間がある。駅前から盛岡行き岩手県北バスの「106急行」で茂市まで先行、駅近くの新里郵便局をゆっくりと訪ねることができた。宮古から岩泉まで直通で入る列車は110-131号車が単車でやってきた。川と国道とJRの線路しかない山の中を約1時間で走る。押角駅は周りに何もない「秘境駅」として有名だが、前の国道は車の交通量が結構あるようだ。国道のトンネルは雄鹿戸トンネルとも言うらしい。
 念願の岩泉線に乗れたわけだが終着駅は無人、降車印は押してもらえない。翌朝、10時半なると町から派遣の駅長さん?が窓を開ける。駅印を頼むと探し出してくれたので自分で切符に押した。
 待合室の案内によると、2007年11月25日から山田線・岩泉線の車両はすべてキハ110系(冷暖房完備車)に変わった。駅訪問者の雑記帳によると、その時の車両は水戸配置の水郡線(水スイ)から転用されとあった。

 翌朝の列車は早朝に1本しかない。岩泉まで来る列車は1日に3本しかないのだ。小本へ出る町民バスまで時間があるので、龍泉洞を訪ねた。洞内は気温10度前後と半袖では寒かった。小本の駅を通り越して、小本郵便局まで乗る。約10分後には県北バスの宮古行きがある。田老では城壁のような防潮堤を鉄の門でくぐり、漁港へ寄っていく。
 ふたたび宮古へ入り、山田線の盛岡行き列車に乗る。これも単行で、昨日岩泉線で乗った同じ車両であった。座席は九部通り埋まり、こちらと同じ大人の休日倶楽部パス利用者と見受けられる乗客が多かった。

 盛岡始発18時2分のやまびこ66号自由席は空いていて、ほとんどが数駅を乗って降りていく短距離利用者だ。大宮から埼京線で新宿へ着くと、乗り換えや小田急線ホームはまだまだ混んでいる。町田からの深夜バスを降りると雨、持ち歩いていた折り畳み傘を広げたのはバス停から自宅までの道だけとなる。

乗った線区:釜石線(花巻=釜石:90.2Km)
        山田線(釜石=宮古=盛岡:157.5Km)
        岩泉線(茂市=岩泉:38.4Km)
乗り降りした駅:新花巻、花巻、遠野、釜石、宮古、茂市、岩泉
訪れた郵便局:12局(総計1,253局)

2008年6月 6日 (金)

紀州鉄道を訪ねて

 ホテルで衣類などを妻の鞄に詰め込んで宅配便に依頼、最終日は少し身軽になれた。チェックアウトして白浜の海岸通りに出る。小さなトンネルをくぐると白浜温泉郵便局があった。近くのバス停09:21発の白浜駅経由田辺駅行きという路線バスに乗る。観光客はあまり利用していない様子だ。とれとれ市場に寄ったりして、まず白浜駅へ。そのまま乗り続けると、大きな医療センターをも回って田辺駅に着く。
 乗車券は紀伊田辺=小田原、特急券として紀伊田辺=御坊の自由席、御坊=新大阪の指定席、新大阪=小田原の新幹線自由席券を求めてから、近くの田辺駅前郵便局まで往復する。

 紀伊田辺10:41発のスーパーくろしお12号の自由席に1駅だけ乗る。この列車は白浜10:31発で、バスを白浜で降りてもこれに乗ることになる。白浜で列車待ちの時間に、田辺までのバス車窓を楽しむことができた。御坊駅前から11:30発の御坊南海バス印南浜ゆきに乗り、市役所前にて下車、市役所隣の{道成寺ゆかりの町の}御坊郵便局へ。紀州鉄道の踏切を渡って{花まる}御坊西町郵便局まで足を延ばし、西御坊駅へと早足で街を散策する。御坊市は「花まる運動」なるものを推進しているとか。

097  昼時だが、近くに食事をしたくなる店は見当たらない。スーパーに入ると、安いからと妻は夏ミカンを買い込んで重いのも顧みずぶら下げて旅を続ける。次の電車までにはたっぷりと時間はある。駅近くを散策、線路は先まで続いているがホームの先端で柵により終端されている。そばの小川の部分はレールが撤去されていて、その先に錆びたレールだけが残っていた。
 駅に張ってあった案内ポスターに「山本好一邸」なる由緒ありげな家が残っているとのこと、先ほどの郵便局近くまで松原通りを往復する。時間があれば何でも見たくなるのだ。

090  レールバスといった雰囲気のキテツー1号車は早くに到着しているのだが、運転手氏はどこかで休憩中。待つこと約1時間、13:15発となる。乗客は私ども2人を入れて4人だけ。途中3駅に止まって終点御坊まで所要時間8分の短い路線だ。真ん中の紀伊御坊駅に本社があるらしく、構内の側線に604号車が留置されていた。しかし動きそうもない様子。ほかには車両が見当たらず、1号車だけで運行しているのだろうか。
 70周年記念切符があると車内には案内されていたが、運転手は扱っていないと。本社に寄らなければ求められない。この電鉄会社は群馬県北軽井沢で別荘地分譲を手広く営業しているが、本体は本当に小さな会社である。紀州の小さな電鉄会社が、なぜ北軽で別荘を売っているのか。

 御坊駅には駅そばの店があり、ホームに面した窓口で「紀州あしべの清姫一夜寿し」を求めて社内で食べることにする。これが本日の昼食である。紀伊田辺方の隣駅道成寺は「安珍さまを追いかけた清姫」ばなしの縁の寺があるところ。それにちなんだサバのなれずしである。
 14:03発の特急くろしお18号を待つ間にも、118系4両編成の和歌山=御坊の普通列車が2本ほど到着しては出発していく。御坊から先への普通列車は極端に少ない。
 下り特急はダイヤが乱れていたが、くろしは18号は定刻の15:49に新大阪に着いた。新幹線25番ホームに上がると、間もなく16:13始発のひかり424号が入線。自由席にはゆっくりと座れた。しかし、発車までには結構席が埋まる。名古屋までは各駅停車、降りる人もいるので途中から乗る人たちもなんとか座れたようだ。
 小田原着18:35。小田急の急行も座れて無事に町田へ帰着。バス停からの小雨に、持ち歩いていた折り畳み傘が役にたった。

旅した日:2008年5月30日

2008年6月 5日 (木)

わかやま電鉄貴志川線

 和歌山駅のロッカーに荷物を預けて身軽になる。まずは「たま駅長」に会うため、わかやま電鉄貴志川線に乗る。和歌山08:54発伊太祁曽(いだきそ)行きに乗る。小雨が降っているので、地図で調べて駅の近くに郵便局がある吉礼で下車。駅周辺を歩き回っても見つからない。駅前のスーパーで聞くと、ATMの裏の路地を入って・・・・と教えてくれた。狭い路地を数回折れ曲がってやっと吉礼簡易郵便局を探し当てた。和歌山県の初訪問局は簡易局であった。ここは和歌山市内である。

052  次の電車は終点の貴志川まで行く。吉礼の次が伊太祁曽、電鉄の本社所在地で車庫もある。赤い「おもちゃ電車」は車庫でお休み中。対向して入ってきた上り電車は白の地に赤くいちごの絵が書き込まれた「いちご電車」であった。3回の乗車で駅で交換することはあったが、結局「いちご電車」には乗り合わせなかった。

054  終点貴志川に09:45着。しかしお目当ての「たま駅長」はガラス張りのお部屋で休憩中。2匹の助役にもガラス越しにしか会えなかった。飼い主である売店の女性の話では、毎日10時半頃になると休憩時間、無理には起こさないでいるとのこと。ガラス箱の中の生活では、きれい好きな猫の生理現象はどうしているのか、聞き洩らした。
 小雨の中を、貴志川郵便局まで往復する。那賀郡貴志川町ではなく、今は紀ノ川市である。

 貴志川10:26発の上りで和歌山駅に戻る。駅前からのシャトルバスで公園前で下車、和歌山城のお濠を眺めただけで和歌山郵便局へ寄る。旅行貯金の通帳にはゆうちょ銀行和歌山店と局名印を押された。中央郵便局との名称はなくなったのだ。
 バスを乗り継いで和歌山市駅へ。南海和歌山市駅とも呼ばれているようだが、この市の表玄関はどっちなのか。駅ビル地下で、名物?「わかやまラーメン」で昼食とする。

 南海電車の立派なホームが並ぶわきにある短い1番線から、JR紀勢本線の105系2両編成の列車が出発する。2駅走って和歌山駅までの連絡線だ。紀勢本線とは和歌山市から紀伊半島を一周して三重県の亀山までだが、最初の2駅はこの支線から始まる。
 和歌山14:05発の特急オーシャンアロー17号に乗る。この列車は新大阪始発で大阪環状線・阪和線を経て和歌山へやってくる。指定席をとっておいた。
 御坊の先、印南(いなみ)を過ぎると”雄大な太平洋をご覧下さい”と車内放送がある。幸い右側の座席(C・D)だった。海岸すれすれに走る場所もあり、「雄大」な太平洋を車窓から楽しめた。

 白浜に15:16着。ロータリーすぐの白浜駅前郵便局に寄り、駅へ戻ると15:30発の白浜温泉組合が運行するシャトルバスに乗れた。大型バスの補助席も使うほどに乗客があある。運転手はあらかじめ客の行き先ホテル名を確認している。
 海岸に突き出た先に建つ中国風のホテルに寄ったりして、わがラフォーレ南紀白浜ホテルは3番目だった。千畳敷や三段壁のホテル群はさらに先のようだ。
 3階のレストランで夕食。窓からは太平洋の遥か先、対岸の四国阿波の陸地がかすかに霞んで見えるが、その上にたなびく雲に沈む夕日が印象的であった。

旅した日:2008年5月29日

2008年6月 4日 (水)

滋賀から和歌山へ

 ホテルの車で貴生川駅まで送ってもらい、貴生川09:54発で柘植へ到着。前回に草津から貴生川まで乗っているので、JR草津線36.7Kmを全乗したことになる。乗ったのは関西色の111系だったが、甲南駅で交換した上りは湘南色塗装であった。所属は京キト。いずれも東海道線のお古だという。

043
 柘植駅にて途中下車印を押してもらおうと切符を駅員に示すと、この切符ではこのルートを通れないという。よく見ると切符の表記は「貴生川=白浜(経由地:草津線・東海道・大阪環状・京橋・紀勢)」となっている。
 昨日、ホテルの送迎車を待っている間に貴生川駅の緑の窓口で求めたのだが、そのさいに確認しておかなかったのが大失敗。ジパング倶楽部会員手帳には、「関西・桜井線・和歌山線・紀勢線」と経由ルートを記入したのだが、窓口氏にとってこんなルートで旅する人がいるとは想定外だったのかも知れない。誤発券である。改札を出て、駅舎の写真を撮ることは許されたが。

044  柘植10:25発の加茂行きは青い塗装のキハ120系2両編成、所属は「大カメ」とある。亀山駅はJR東海管内だが、JR西日本の気動車運転所は亀山に置いてある。加茂着11:34、同じホームの反対側に221系の電車が到着しすぐに11:34発で折り返す。
 関西本線は名古屋=亀山はJR東海の電車、亀山=加茂は非電化で西日本の気動車、加茂=難波は近郊型の電車と乗り継がなければならない。学生時代に関西方面の工業施設見学の帰りに奈良から名古屋まで乗ったのは、SLけん引の列車が直通だったのに。

 奈良に11:57着。工事中で落ち着かない雰囲気である。改札の係員に誤発券の切符を変更できないか相談したが、ノート型パソコンで調べてくれたけど”変更できないのでこのまま使用して下さい”とのこと。改札を出て売店でおやつを買う。40分の待ち合わせで、奈良12:37発の桜井線・和歌山線を経由和歌山行きに乗る。

047
 これが105系の見た目にも古い型の、ロングシートの電車が2両編成である。これまでは3車種ともクロスシートであったが、3時間弱も乗るのに先が思いやられる。案の定、妻は和歌山に着いたときにはグロッキー気味で機嫌も悪い。地方交通線とはいえ、奈良・和歌山の県庁所在地間を結ぶ連絡列車としてはお粗末の感を拭えない。
 45年前の同じ日に、京都から奈良線・桜井線・和歌山線・紀勢本線経由の白浜行き気動車準急「しらはま」に乗ったのだ。新婚旅行2日目だった思い出のルートなのだが、妻は全く覚えていないという。交通公社で切符を買ったときにも、係員はこの列車を知らなかった。客であるこちらが交通公社発行の時刻表を示して、やっと納得させた経緯も思い出す。

 和歌山駅に隣接するデパートと同じ建物にあるホテルに泊まる。妻は疲れて動けないので、駅ビルやデパ地下のスーパーで弁当と果物を買い込み、ホテルの部屋で夕食とする。よくやる手ではあるが。窓から外を覗くと小雨が降り出した様子、照明された和歌山城が遠くに見える。

旅した日:2008年5月28日

2008年6月 3日 (火)

近江鉄道に乗って

 東海道新幹線ひかり403号(09:49着)を米原で下車、駅舎は改装直後といった感じである。西口から米原郵便局に寄って、長い地下道で操車場を抜け東口へ。米原東簡易郵便局は旧中山道に面した2階建ての民家、1階が簡易局でご婦人が一人で窓口を守っていた。

米原駅東口のわきに、これも新装の近江鉄道米原駅がある。以前見た時はJRから離れた駅だったが。大きな荷物を持った妻を待たしておいたので、ここで一緒になる。

007 〈米原駅にて。821+1821〉
 
 自動販売機で多賀大社前まで460円の切符を買う。米原10:40発多賀大社前行きは2両編成の821+1821号車。路線唯一のトンネルを越えると彦根、ホームはJRに並んでいる。ここに車庫がある。高宮から別れて大社前へと直通で、名神高速をくぐると終点だ。この駅舎も新しい。
 多賀郵便局から街をちょっと覗いて参道の鳥居をくぐり、駅へと戻る。折角の機会だが、大社の参拝は遠慮する。これからの行動予定から、体力にも配慮する必要があるのだ。大社前11:38発は赤色のラッピングカー、ふた駅走って高宮止まり。この駅には赤く錆びついた貨車が数両留置してあるが、二度と稼働は無理の様子。

018  次の八日市方面行きには約1時間の待ち合わせ。駅を出るとき大社前からの乗車証明を出すと、乗り継ぐならのそまま使いなさいとの指示あり。駅前には閑散な住宅が並ぶだけ。少し歩くと「喫茶アイ」がある。ここに妻を待たせて郵便局へと散策。駅前通りが突き当たるのが中山道の旧道で、街並みも歴史をしのばせる。高宮郵便局も町並みに配慮した造りだ。多賀大社への参道入り口の大鳥居が脇に立っている。

 高宮12:32発は近江八幡行き。沿線は少し早い麦秋と近江米の田植えが済んだ田圃とが続く田園地帯である。途中新幹線と並んで走る区間もある。八日市でまた乗り換えだ。1番線に渡ると、すぐに貴生川行きが発車する。これも803+1803の2両編成。
 貴生川駅で清算。多賀大社前からの乗車証で貴生川まで930円、高宮からは910円なので若干の得をしたことになる。米原と貴生川を直通する列車はごく少ない。乗り継ぎの連続だった。しかし、前回の旅で貴生川=八日市=近江八幡と乗っているので、これで近江鉄道は全線乗ったことになる。

旅した日:2008年5月27日

2008年2月19日 (火)

横浜線異聞(2)

「人生流転のすえ、新興宗教に入信??

 JR横浜線は東神奈川=八王子間を走っているが、橋本着・発の区間運転の列車もある。下り橋本止まりの列車は2番線ホームに発着する。このホームの相模原方面の端に、面白い標識を発見した。
 「流転注意」「入信よいか」などとある。思わず“人生流転のすえ、新興宗教に入信か”と、連想してしまった。不届きな連想ではある。

006  橋本には、上り方面の左側に数本の電留線を持つ小さな電車基地がある。この線区を走る普通電車には「横クラ」とあるので、横浜支社鎌倉運転所所属の車両であろう。(東神奈川電車区というのはどうなったのかな。)その分駐所ということになる。
 車庫に出入りするさいの入場信号(入信=いれしん=と読む)が数十メートル先に立っているので、その確認を見落とさないようにとの標識であろう。車庫への出入りには、上り本線を横切ることになる。

 折り返し運転の場合、ドアを開いて乗客を乗せて出発時刻を待っている。乗客を乗せたままブレーキの緩みなどで電車が動くのを、「流転」と言うらしい。乗るか降りるか、足を出したときに電車が動くのはとても怖いし、危険である。

 中央線塩山駅の、廃線になっている貨車の留置線の脇にある電柱には、「動転」という表示があるが、こちらは何を意味するのだろうか。

2008年2月 8日 (金)

横浜線異聞(1)

 JR横浜線は東神奈川駅を出ると京浜東北線を高架で跨いで北西に向きを変え、一路八王子へと向かう。最初の駅が大口(おおぐち)、次は菊名、ひとつおいて小机と続いていた。
 古い人は横浜線が止まる駅の順序を覚えるのに、「大口をきくな(菊名)、小突くぞ(小机)」と笑い話に置き換えてていたらしい。現在は菊名と小机の間に新横浜が割り込んだので、この小話は通用しない。

 今日は穏やかに晴れていたので、この3駅を訪ねてみた(ものずきだネ!)。
 大口の西口前はロータリーがあって路線バスも発着している。ロータリーの中は有料駐車場、その中心にはなんと大きなフェニックスが植えてあった。

Ookuti 【写真:駅前にフェニックスが植えてある大口駅】

 西口から3分ほど歩く距離に横浜大口郵便局があり、とても混んでいた。東口には直ぐ前に大口駅前郵便局がある。
 菊名では東横線への乗り換えは便利だが、JRの改札口を出るとやや裏口といった感じ。綱島街道方面に出るのには、階段を上って東急の改札口まえを通り越さなければならない。すこし東へ歩くと跨線橋もあるが。駅の近くに駅前郵便局があるが、ここは訪問済み。折角下車したのだからと港北郵便局まで歩く。通帳には株式会社ゆうちょ銀行港北店との局名印をもらった。
小机駅は新しく作られた階上駅だ。日産スタディアムへの最寄り駅である。試合の前と後での客の動態に合わせるのか、ホームから階上へのエスカレータは上り下りで幅が違うのが珍しい。小机駅の近くに郵便局はない。

 もう一つ、大口と菊名との間に寺尾トンネル(約700メートル)がある。京浜地帯を走る横浜線には、これを含めて3っつのトンネルがある。もっともさらに都心を走る中央線にも四谷と信濃町の間に御所トンネルがあるけど。意外と首都圏は起伏があるのだ。

(訪ねた日:2008年2月8日)

2008年2月 2日 (土)

龍ヶ崎を訪ねる

 大寒の終わりが近いという2月1日、空は青く晴れていた。温度は低いが風はない。昨年秋に総武流山鉄道に乗ったときは時間切れで乗れなかった、常磐線で利根川を渡ってすぐの関東鉄道龍ヶ崎線が気になっていた。出掛けてみるか。
 上野12:32分発の常磐快速土浦行きに乗る。15両編成のこの車両だけセミクロスであった。クハE531-14、水戸ミツ区所属の車である。取手を過ぎると藤代との間で直流区間から交流区間に変わるはずだが、能登の七尾線と違い車内の照明も消えたりしない。上り線の架線を睨んでいても気がつかないが、線路脇の変圧器だけの変電所があるところあたりがデッドゾーンだったのだろう。
 佐貫駅には付近案内地図がない。東口の交番で教えてもらい、駅前ロータリーからすぐの佐貫駅前郵便局へご挨拶。

 関東鉄道龍ヶ崎線は東口地上から出る。13:54分発のキハ2001単行、料金は片道210円である。中年の男女の客が20人ほどで、座席はゆるゆるだ。出発して左カーブを過ぎると、線路は畑の中を真っ直ぐに延びている。ジーゼルだから架線や電柱もない。踏み切りは音だけだ。途中の入地(いれじ)での乗降客はなかった。ゆるい左カーブを曲がるとその先が終点の龍ヶ崎。佐貫、入地、龍ヶ崎と3駅とも単線片側ホームである。
 駅の脇の基地?に2002号車が待機、かまぼこ形の車庫のなかに旧塗装車が1両、全部で3両しか見えなかった。数分で佐貫行きとして発車してしまう。全線1閉塞、1両が往復しているようだ。

Ryugasaki02 【写真:龍ヶ崎駅に侵入するキハ2001】

 駅から直進して3分ほどの右側に龍ヶ崎米町郵便局がある。近くの喫茶店でサンドイッチとアメリカンコーヒーで軽い昼食とする。歩いて20分ほどの龍ヶ崎郵便局まで市内を散策する。街にあまり活気は感じないが、車の通行は賑やかだ。
 郵便局の先の岡の上にある流通経済大学の学バス、市内の100円バスがあるようだが、お目にかからなかった。小学校がひけたのか、集団下校の子供たちは元気である。
 龍ヶ崎15:55発で佐貫へ戻る。常磐線快速16:17分発は、遅れている特急退避で下りホーム2番線利用との案内。5分遅れで発車。
 天王台と我孫子間は上下の線路が大きく離れ、電車基地がある。取手までしか入れない直流形のE231系などのお宿である。メトロ千代田線経由で小田急線の代々木上原に現れる車両も、ここから出てくるのだ。自分が乗っている快速線の交直両用車は水戸からか。

 小田急線町田=新宿:360円、JR新宿=佐貫:950円、関東鉄道龍ヶ崎線:210円、片道:1、520円を往復しただけ。日帰り旅の楽しみでした。

(旅した日:2008年2月1日)

2007年12月 7日 (金)

福島・仙台・山形の旅07

 「大人の休日倶楽部パス」利用で南東北を旅した。主な目的は福島の飯坂線、福島から宮城への第3セクター阿武隈急行線に乗り、仙山線で山形へ、JRローカル線の左沢線に乗ること。これを3日間の旅にまとめることになる。

 2007年12月4日(火)、大宮08:34発のやまびこ105号の2階建て1階の自由席で福島へ。福島栄町局で最初の旅行貯金を済ませ、福島交通飯坂線の福島10:30発で終点飯坂温泉を訪れる。十綱橋を渡って湯野局を往復、芭蕉や与謝野晶子が詠んだ句を眺めて11:30発の電車で福島市の中心部へと戻る。
 終点の一つ前、曽根田で下車し曽根田局に寄ってから「ゆうちょ銀行福島店」(中央郵便局の呼び方が変わった)へと歩く。途中の天満宮には山車の収納庫が並んでいる。

 飯坂線と向かい側のホームから14:25発の阿武隈急行線槻木(つきのき)行きに乗る。問屋の町・卸町、伊達氏発祥の地・高子とか各駅にキャッチコピーが付いているのが面白い。車両基地がある富野を過ぎ、丸森で5分停車となる。ここは槻木からの旧国鉄丸森線の終点だったのだが、駅構内にはそれを偲ばせる雰囲気はまったくない。文化の薫る町・槻木15:51着では郵便局へ寄る時間はない。東北線の普通電車で仙台へ、長い下りのエスカレーターで仙石線のホームへ。ひと駅乗って「つつじがさき」で下車、徒歩5分ほどのホテルへと第1日目の旅を終わる。

 12月5日(水)にはホテル1階のメルパルク仙台郵便局へ。昨夕と逆のコースで仙台駅へ。ロッカーに荷物を預けて先ずは仙台空港アクセス線SATに乗る。仙台空港内局へ寄ってから展望室などを散策。
 仙台へ戻り、12:46発の仙山線快速に乗る。途中の愛子(あやし)は職場仲間の葬儀で一度訪れたことがある。山寺13:40着。山寺局へ寄ってから立石寺の本堂と登山口まで散策。1時間後の普通電車で山形へ。
 市内中心部循環の100円バスで「ゆうちょ銀行山形店」を回り、駅舎に隣接したホテルへチェックイン。夕食は2階のファーストフードで済ます。

Aterazawa 写真:左沢駅ホーム・洋なし(ラ・フランス)の駅名標

 12月6日(木)、9:21発左沢(あてらざわ)線に乗る。終点・左沢では38分しか待っていてくれない。日陰にはシャーベット状の雪が残っているので、避けながら左沢局を往復。10:45発上りで寒河江に途中下車、約1時間の間に寒河江局までの町を散策する。局の隣が大江氏の寒河江城址だというが、それらしいものは残っていない。
 寒河江12:09始発で山形へと戻る。それまでの行きも帰りもガラガラだった車内は、途中から高校生たちが大勢乗り込んできた。山形市周辺ではこの線だけが非電化区間で、キハ101系が2両編成で運行している。朝夕の多客時間帯は増結されるのかも知れないが。

 山形駅西口の霞城セントラル局を済ませたあと、霞城址を散策。JRを跨ぐ橋の上から見ると、奥羽本線(山形新幹線)と仙山線・左沢線の線路が一見複線のように見えるが、注意して見ると線路幅が異なっていることが分かる。最上義光歴史記念館を見学、駅前へ戻るバス停近くに木の実局を見つけた。
 山形17:05発つばさ126号の指定席にて帰京。小田急線が人身事故のためか、ラッシュを避けたスケジュールの予想に反して混んでいた。

2007年10月11日 (木)

流山電鉄に乗る

 東京に一番近いミニ私鉄路線、総武流山電鉄に乗りに出掛けた。
JR常磐線馬橋駅に着いたのはお昼過ぎ、町田を10:40発の快速急行に乗ってから約1時間半。新宿から山手線で上野に回り、総武快速で松戸へと普通に乗り換えての行程である。先ずは郵便局でご当地訪問の記録をと東口へ回る。
 駅前を真っ直ぐに東へと進み、T字路を左折すると道路が右へとカーブする所に赤煉瓦の馬橋郵便局があった。郵政公社が民営化して最初に訪れた郵便局となった。郵便窓口の脇にある記念切手の陳列壁を覗くと、あッタ! 民営会社発足記念の切手シートが2種、歴史編が2枚と日本画編が1枚ぶら下がっている。早速に1枚ずつ購入した。町田周辺では発行当日の夕方には売れ切れてしまい、手に入らなかったものだ。
 次のお客さんに残りの1枚も買われてしまい、最期のチャンスだったことになる。
 通帳を見ると、利子と税金が10月1日付けで記帳されていた。制度が変わり、従来の4月1日だけでな半年ごとに利子が記帳されることになったとのこと。

 駅へ戻り、12:45発の流山行きに間に合った。連絡通路から階段を降りると切符の自動販売機がある。終点までは190円。「入鋏省略」と印字されていて、改札口の駅員に切符を見せるだけ。
 ホームの左側には3両編成の待機列車が止まっている。3両編成の前後で電車の写真を撮る余裕があった。ホーム右側から乗ったのは「流星」の愛称を持つ3000系、先頭車(流山に向かって)はクモハ3001号車だった。運転席との仕切の上には、所沢車両製作所・昭和45年製とある。
 前に所沢駅周辺を散策したとき、道路を引き込み線で渡ったさきに西武所沢製作所の工場があったけ。あそこで造られた車両なのだ。そういえば流山電鉄の現役車両は、かって西武鉄道で働いていたものが2度目のお勤めをしているベテラン揃いなのである。
 馬橋駅を発車すると直ぐに単線となる。運転手は随所で指差しているが赤青の信号は見当たらない。踏切閉鎖のX形信号を確認しているらしい。小金城址は唯一行き違いが出来る駅だ。下り列車は、上りがホームに入るのを待って発車する。
 平和台駅から終点の流山駅構内が見通せる距離だ。終点の流山駅も1本のホームで、片側には待機列車が止まっている。到着ホームは線路の行き止まりではなく、その先に検車区(車庫)があり、カラフルな車両が納まっていた。一番右側の線は修理中か、連結面が顔を出している。

 同電鉄会社の本社もある流山駅舎は平屋建てで、「関東の鉄道百駅」にも登場したことがある。線路を跨ぐ歩道橋を渡り駅の東側へ出た。この歩道橋は、上から駅全体が見渡すことができるビューポイントである。
 バス通り(1時間に1本のバス路線)を5分ほど進むと、住宅街の中に流山平和台郵便局がある。
 さて昼時だ。軽くお腹に入れなければと付近を探すと、郵便局の向かい側に寿司、そば、きょうざといったたべもの屋が並んでいた。しかし営業中は餃子の店だけ。狭い店内はお客さんでほぼいっぱい。自家製とうたうラーメンを注文した。S、M、L、LLとサイズがあり、Sを頼んだのだが盛りがいいのだ。餃子、チャーハン、野菜炒めとほかのお客さんに出されたのを見ても、みんなLLサイズに見える。

07_028 【写真】終点流山駅の線路終端には検車区(車庫)がある。

 お腹が膨れたので、少し高台にある市役所を回って駅へと戻る。流山14:09発は、クモハ2001が先頭の「青空」号2両編成だった。全列車に愛称が振られている。小金城址で交換したのは、行きにこの駅で交換した「なの花」号。
 信号機は終点の入場信号機と小金城址駅の入場信号だけみたい。他は単線で片側ホームの駅ばかりだが、全駅に駅長さんがいる。運転手は各駅の駅長さんや、交換する列車の乗務員(運転手と車掌)と嬉しげに手を振りあうのだ。全長5.7kmの路線を往復するだけなのに。
 終点(始発駅)馬橋駅には線路終端部はなく、JR線構内でつながっている。ホーム北側の待機線は行き止まりだが。

 馬橋から常磐線各駅停車我孫子行(快速列車はこの駅に止まらない)で柏まで進む。取手から先へ行くのは少なく、次は15:02発水戸行きとなる。これで佐貫まで行っても竜ヶ崎での郵便局営業時間には危ない。そこで、竜ヶ崎線に乗るのは次の機会にゆずることにして、今日は柏市内の散策と計画変更する。
 まずは駅の西口へと出る。柏駅西口郵便局を探し、駅へと戻って高島屋地下2階へと降りる。デパチカ食料品売場の奥に、柏高島屋郵便局があった。その脇には、今は懐かしい赤い筒形の郵便ポストが現役として立っていた。

 まだ時間があるので、東口の賑わう商店街を抜けて本局へと歩く。通帳に押された局名印にはゆうちょ銀行柏店とある。入口のガラス戸には「ゆうちょ銀行柏店-さいたま支店柏出張所」とあるではないか。
 従来の公社直営の普通局は名前も変わり、特定郵便局に委託されたゆうちょ銀行業務の場合は郵便局名の印が押されることになったようだ。
 民営化後の最初の郵便局巡りだったが、だんだんと制度変更の実態が理解出来るようになるのだろう。しばらくは旅行貯金の楽しみも、興味がさらに増えた感じである。

(乗った日:2007年10月10日=水)

2007年7月12日 (木)

中谷宇吉郎「雪の科学館」を訪ねて

 北陸・加賀温泉方面に旅した際、中谷宇吉郎「雪の科学館」を訪れた。
 片山津温泉街の東、芝山湖畔に立つリゾートホテルには2度目の宿泊であった。湖の対岸に立つ科学館には前から訪ねたいと思っていた。その朝の駅への送迎バスを利用したのは私たち夫婦のみ。運転手氏と挨拶がてらに、駅から市内観光のCANBUSを利用して「雪の科学館」を訪ねる予定だと話したら、駅へ行くより近いからと科学館まで送り届けて頂いた。

 六角形に枝を伸ばした雪の結晶には、馴染みの方も多いだろう。クリスマスが近づくと、保育園や幼稚園の窓ガラスにサンタさんと一緒に、この雪の結晶が吹き付けられている図もお馴染みである。
 この雪の結晶を発見したのが中谷宇吉郎博士なのである。しかし雪の結晶は6角形だけでなく、棒状のものや砲弾型もあることを初めて知った。この雪の結晶を調べる過程で、人工雪の研究も行い、初めて成功したのも中谷博士である。

 展示室から外を見ると、グリーンランド氷河のモレーンの石を引き詰めた中庭に人口霧が舞っている中庭がある。その先に芝山湖があり、晴れていれば白山も遠望出来ると案内に書いてあったが、その日は曇り。昨夜泊まったホテルが対岸に確認はできたが。
 展示室の見学を終わり、中庭の先にある喫茶室で一休み。

 中谷宇吉郎博士は北大(北海道大学)での研究生活が長く、十勝岳の山小屋にこもって天然雪の研究をされたことも有名なので、北海道の出身かと思っている人もいる。
 彼はここ片山津温泉で1900(明治33)年に生まれ、金沢の四高、東大理学部物理学科を卒業、寺田寅彦博士の指導を受けられている。理化学研究所勤務のあと、ロンドンに留学、帰国して北大に赴任された。

096 【写真:喫茶室からグリーンランド氷河の原を挟んで見る雪の科学館本館】

 見学を終わって預けておいたザックを取りに受付へ寄る。お土産にと池内了編「雪は天からの手紙」-中谷宇吉郎エッセイ集-(岩波少年文庫)も求めた。
 帰りの電車の中で読み出したが、雪や霜に関するだけでなく、豊富な見識から科学一般についての魅力をやさしく紹介されているのにはまってしまった。

 「雪は天からの手紙」を読み終わろうとしていたとき、7月9日付けの朝日新聞夕刊に「霧の芸術・科学に警鐘」との見出しで、中谷芙二子さんが霧を使った舞台を公演するとの記事が載った。芙二子さんは、霧を使って空間を演出する「霧の彫刻家」として有名だという。
 片山津の「雪の科学館」の中庭「グリーンランド氷河の原」は、中谷芙二子さんが修景したと、同科学館の案内パンフレットに記されていた。彼女は宇吉郎博士のお嬢さんである。

(訪ねた日:2007年6月28日)

2007年4月23日 (月)

安曇野に上原良司記念碑を訪ねる

 信州は安曇野を車で散策した折りに、池田町立山岳美術館の敷地に上原良司の記念碑が建てられてあると聞いていたので、訪ねてみた。
 同美術館の駐車場に車を置いて、広い公園の中を探して歩き回る。公園内の一番奥の高い場所にあった。創造館の上、パターゴルフ場の一角にあった。下から見ると太い水道管みたいである。登り口に案内の木が立っていたが、片面にしか書いてないから反対側から近づいても分からない。

 上原良司とは。記念碑の脇に立つ略歴を紹介した碑から見てみよう。
  1922年9月、長野県北安曇郡池田町鵜山(旧七貴村)の医者の三男として生まれ、穂高有明に育つ。松本中学、慶應義塾大学経済学部に学ぶ。
  1943年12月、学生徴兵猶予停止により松本五十連隊に入営。
  1944年2月、特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校へ入校。
  1945年3月、特攻隊として要請を受ける。
  1945年5月、出撃前夜に報道班員に所感を託す。
  1945年5月11日、陸軍特別攻撃隊員として鹿児島県知覧基地を離陸、沖縄島西北方海域に突入。22歳。

 碑文には彼の所感が記されている

    きけ わだつみのこえ
 自由の勝利は 明白な事だと思います
 明日は自由主義者が 一人この世から 去って行きます
 唯願はくば愛する日本を 偉大ならしめられん事を
 国民の方々に お願ひするのみです
                       上原良司

P1010035  これらの碑は、平成18年9月27日、「生誕地に上原良司の碑をつくる会」が建立したと趣意が記されていました。記念碑が立つ高台から見下ろすすぐ下の集落が、彼の生誕地である池田町鵜山です。

 この日は珍しく晴天で、北アルプスの連山がくっきりと見渡すことが出来ました。真っ正面に有明山、燕、常念岳などが並んでいます。今年は降雪が少なかったが、それでも3,000メートル級の山頂は白く光っていました。それを背景に写真も撮りました。

(訪ねた日:2007年4月12日)

2007年3月16日 (金)

JR花輪線にて

 大鰐からの奥羽線特急かもしか2号は予定より3分ほど遅れて大館に着いた。この町は東京・渋谷駅前にある忠犬ハチ公の生まれ故郷だと、上り線ホームの改札口脇に大きな犬の置物がある。
 跨線橋を渡って3番線に急ぐ。花輪線11:06発の快速列車が待っていた。最後尾のキハ58-1506号車に乗る。出発して右側を見ると、留置線にキハ110系2両が試運転と表示して止まっていた。車掌に聞くと、3月18日のダイヤ改正で、老朽化した58系からキハ110系に置き換えるという。そういえば、窓際の小さなテーブルに手を触れるとガタガタしている。

 十和田南はスイッチバックで進行方向が逆になる。今度は先頭車だ。運転席の後ろに立つと、進行する線路は雪に覆われて見えない。真っ白な雪原を行く。2時間ほど前に先行した列車が通過後、線路が見えなくなるほど降っているのだ。
Habawa  鹿角花輪で下車、下りと交換した。ホームには10センチ以上も雪が積もっている。ホームから改札口へ線路を渡ると、先客が駅員に写真を撮ってもらっている。「私もお願い」と1枚。ひとり旅だと自分が写っている写真は少ない。今回の旅での貴重な証拠写真となった。

 待合室の片隅で、駅蕎麦のお昼ご飯とする。雪の降りしきる町へ出て、国道を渡って花輪局で貯金。駅へ戻る途中のお店で、太古焼きとコーヒーという変な組み合わせで一休み。お店のご婦人の話では、鹿角は江戸時代に南部藩だったと。この駅も、かっては陸中花輪と呼ばれていたことを思い出す。今は秋田県だけど、佐竹藩ではなかったのだ。
 次の列車まで約2時間の待ち時間がある。駅前バス停から13:17発小坂行きの路線バスで十和田南へと時間潰し。独身の頃に十和田湖から蒸けの湯へ、また10年ほど前に夫婦で八幡平から十和田湖へとドライブした道だが、景色に思い出はない。雪は降り続いている。
 十和田南の駅前は淋しい。十和田湖と結ぶJRバスの乗り場は分からなかった。十和田湖でヒメマスの養殖に成功した和井内さんの記念像が雪を被って立っていた。
 そこへ見慣れない3両編成の列車が入ってきた。腹には大きく「こがね」と書いてある。団体臨時列車なので、駅の時刻表には表示されていない。

 十和田南14:32発の上り普通列車に乗る。52系と58系との混合編成で、真ん中には旧国鉄塗装のキハ58-1528、セミクロス車が連結されている。後尾の52-754は出入り口と客室は仕切られていて、その出入り口の間にも1対のクロス席が両側にあった。寒冷地仕様なのだろうか。

 岩手県に入ると、そこはもう八幡平市なのだ。荒屋新町には転写台や機関庫などが残っている。二戸市からのJRバスもあるようだが、車窓から見ると小さな町である。
 大更あたりは雪が降っていないが、IGRいわて銀河鉄道を経由して盛岡に近づくとまたちらちらと舞っている。盛岡のホームで例の国鉄塗装車を間近に見ると、塗装は剥げて簡単に上塗りした跡がハッキリと分かる。これでは新車に置き換える必要に迫られるわけだと理解した。
 銀河線の改札口を出てからJRの改札口まで、駅ビル内のお土産屋街を迷いながらうろつく。小さい駅弁を買って、17:09発のやまびこ64号の客となる。大宮で埼京線の快速、新宿で小田急線の急行と、乗り継ぎは順調に無事帰宅した。

(乗った日:2007年3月7日)

2007年3月14日 (水)

弘南鉄道大鰐線

弘前中央=(弘南鉄道大鰐線)=大鰐=(奥羽本線)=大館

 昨夜からの雪は朝には数センチも積もっていた。弘前駅前6番乗り場からバスで中土手町へ。聖公会昇天教会を写真に収めながら、弘前中央駅へと歩く。一見鉄道の駅舎には見えない小さな駅である。駅前の道路はそんなに広くはないが、通勤時間帯でもあるし車の通行量が多い。雪が積もっている道路を結構な速度で走っている。

Owani  【写真】弘前中央にて発車を待つ弘南7000系。
      単線で片ホーム。

 09:00発の2両編成に乗る。朝の時間帯は毎正時と30分、昼間は45分間隔のダイアで運行されている。乗った先頭車は7039号車で東急車輌製。
 千年(ちとせ)で対向列車と交換する。津軽大沢に車両基地があり、除雪車も待機していたが今日のところは出番はないだろう。奥羽本線を高架で跨ぐ形で交差する。
 終点の大鰐では弘南鉄道のホームでは集札せず、跨線橋を渡って階段を降りると、JR改札口の手前に小さな駅舎が別棟として建っている。集札係りのご婦人に断って切符を記念に頂く。駅を出て振り返ると、大きなワニの人形が立っている。

 駅前を左に折れ、二俣を右にとると直ぐに大鰐局がある。駅へ戻っても、約1時間の待ち時間がある。その前に通るはずの下り特急あけぼの、普通列車など1時間程度のおくれだという。秋田周辺の日本海側は激しい吹雪らしい。
 大館で花輪線に乗り換える予定なので心配したが、上りは定刻で運行しているとのこと。安心して待つ。大鰐10:36発の特急かもしか2号はほぼ定刻にやってきた。乗ったのはモハ484-1079、自由席のボックス席がひとつそっくり空いていた。
 長峰=碇ヶ関間の下り線側に、旧線のトンネルが見える。複線用に新しく掘った現行のトンネルに比べるととっても小さく見える。あれで煙を吐くSLがよく通れたものだと感心する。その先でも、複線化で下り線は新しい線路を通るが、上りは大きく離れた旧線を走る。
 大館に3分ほど遅れて到着するが、花輪線はそれを待って発車するとの車内アナウンスにひとまず安心。

(旅した日:2007年3月7日)

2007年3月13日 (火)

五能線(区間)に乗る

 津軽鉄道で五所川原に戻ったのは14:49。弘前へ戻る五能線下りには1時間以上も待ち時間がある。駅前を15:00丁度に出る鰺ヶ沢行きの弘南バスがある。これで五所川原の一つ先の木造まで足を伸ばすことにした。
 バスは駅前から西へ真っ直ぐに国道101号を進む。五所川原駅は南北に位置していて、五能線の線路は駅を出ると左へと曲がって国道と並行になる。バスは途中で新しく出来たらしいショッピングセンターの駐車場まで寄ってから国道へ戻り、次の信号を右折、踏切を渡って木造の町へと入って行く。
 警察署前バス停で下車すると、道路を挟んだ向かい側に木造局がある。

 木造は現在つがる市となり、町役場が市役所になっている。しかし、木造駅への道は寂しい。元は銀行だったり、歯医者さんだったりの歴史をその場せる建物があるが、今が使われていないようだ。
Kizukuristn
 埴輪に出迎えられる木造駅舎 

 しかし、なんと言っても目を見張らせ、驚かされるのは木造の駅舎である。2階建ての駅舎の正面には大きな埴輪が目を剥いて立っている。近郊の縄文古墳から出土した埴輪に、現代でも働いてもらおうとの意味であろう。列車が近づくと目に灯りがともるとのことだが、次の列車にのる身には確認できない。駅脇の小さな公園にも竪穴式古代住居を復元したような小屋が2棟建っていた。

 駅舎の中はこざっぱりした待合室があり、駅事務所もガラス張りで綺麗だ。業務は市民に委託されていて、男女の2人がガラスを磨いていた。
 待合室の片隅には喫茶コーナー風の施設があったが使われていない。2階は会議が出来るような広間になっているらしいが、利用者はあまりいないように見受けられた。
 16:04発のキハ40系2両編成の列車が入ってきたが、乗る人は3人。車内も乗客はちらほら。

 朝から雪が舞う天候で、車窓の南側に見られるはずの岩木山はとうとう姿を現さなかった。この季節に雪がない津軽では、夏の水不足が心配だ。向かいの席の老人に話しかけると、この降りでは積もっても2~3センチほどだろうと、あまり期待している様子もない。

 次の機会には五能線を全線乗りたいと念じながら、雪の降りしきる弘前に戻った。

(旅した日:2007年3月6日)

 

2007年3月12日 (月)

津軽鉄道にて

 弘前09:25発の五能線で五所川原へ。キハ48系(秋アキ所属)の2両編成は津軽三味線の出発曲で送り出される。河辺で進行方向を変えて、奥羽本線から西方へと分かれる。沿線は一面のリンゴ畑で、JAもリンゴ果実組合である。板柳を過ぎると今度は一面田圃が広がる津軽平野である。
 五所川原で徒歩5分ほどの「心躍る立倭武多の郷」五所川原局へ。さらに10分ほど歩いて五所川原北局まで足を伸ばす。

Stovetrain02車掌が石炭をくべて火力を調整してくれる。

 津軽五所川原11:35発はDLに牽引される旧国鉄型のオハ33系客車2両だ。前方の1両は団体扱いとかで閉鎖され、ふりの客は後尾の1両だけ。出発前に車掌がストーブに石炭を補給して火力を調整してくれる。
 この日の乗客は席が丁度埋まる程度で、発車前からいい年をした大人たちがはしゃいでいる。静岡から青春18切符だけでここまで来たという2人連れの女性客もいた。早速にするめを焼きだして話が弾んでいる。途中の金木12:07着。私はここでストーブ列車とは分かれて途中下車した。

 「太宰のふるさと」金木局へ寄ってから、お目当ての一つでもある斜陽館を訪れた。入館料500円を払うと、受付嬢は丁度案内人が説明しているから同道したらと親切に勧めてくれた。1階2階と回り、奥の土蔵造りの米蔵ではこの家を建てた建築家に関する展示をしていた。
 太宰が「苦悩の年鑑」で「風情も何もないただ大きい」と書いているが、今では風情は十分感じられる大きい建物ではある。
 風とともに雪が舞いだした道を駅へと戻る。途中で、この町は初のプロ飛行士白戸栄之助の生誕地であると書かれた丸太の説明柱を発見、駅舎の一部にある金木交流プラザには彼が設計して乗った二枚翼の飛行機模型が陳列されている。

 金木13:05発の次の下り列車は津軽21-102号車の単車運行。この駅で先ほど乗ったストーブ列車の戻りと交換する。終点からはバス旅行の団体が乗ったのか、2両とも乗客が一杯だ。
 終点の津軽中里に降りたのは数人だけ。乗ってきた列車が折り返すまでに1時間ほどの時間がある。強風とみぞれ模様の町中を10分ほど歩いて中里局へ。現在は中里と小泊が合併して中泊町である。
 駅舎にはスーパーストアが併設されている。この店でお弁当を求め、電子レンジで加熱してからホームに待機中の車内で昼食とする。発車前に食べ終えた。津軽中里14:13発の上り列車である。
 前後の運転席脇には20冊ほどの図書が用意してある。乗客からの寄付か、乗客へのサービスか。1時間半ほどの乗車時間に読むのにはうれしい配慮だ。
 全線を金木で分けてタブレット交換していたが、金木、津軽五所川原への入場信号は腕木式が使われているみたい。

(乗った日:2007年3月6日)

2007年3月11日 (日)

秋田内陸縦貫鉄道に乗る

 こまち3号が角館のホームに入ると同時に、隣の内陸縦貫線にもブルー塗装の1両が近づいてきた。JRの駅舎を出て右に回ると、縦貫線の駅が隣接している。14分の接続時間で待つ間もなく、11:03発の鷹巣行きに乗る。田沢湖線のホームから見たブルーの車AN8805単行である。新潟鉄鋼昭和63年製。
 しばらくJRの線路と並んで走るが、すぐに分かれて林と田園の中をのんびりと進む。山間部に入るといくつかのトンネルを過ぎて、桧木内川と阿仁川とを分ける分水嶺を越える十二段トンネルは長い。社内放送でも紹介されるが、5697mで秋田県内では最長のトンネルである。運転手の話では、通過に約7分を要するという。阿仁マタギなんて興味をそそられる駅を過ぎ、笑内(おかしない)では車内から駅名標にカメラを向けている人もいた。萱草(かやくさ)には身延山の分院で七面山という寺があるらしい。

 角館を出る時には10人ほどの乗客が、ここまで来ると数人しか残っていない。心残りだが、阿仁合(あにあい)で下車した。駅を出て左折して坂を登り、。阿仁合局へ。今回の旅で最初の旅行貯金となる。局の前には大きな家がある。二階の切り妻面に太い梁が1本または3本と突き出た作りである。しかし現在は無住だとか。
 かっては阿仁鉱山があったところで、佐竹藩が寛文10年に発掘許可を与えたという古くから銅山として栄えた土地だったのだ。もっと前、奈良の大仏鋳造に阿仁の銅が献納されたという言い伝えもあるそうだ。
 鉱源の枯渇により昭和45年に生産を中止、53年に閉山した。その鉱石を搬出するのを目的に旧国鉄阿仁合線が引かれた。阿仁合の駅舎は正面から見てもホームから見ても三角形をしている。線路の脇には腕木式信号機が立っているが使われてはいない。本線の奥は車両基地で、色とりどりの車両が並んでいる。お座敷車両もある。

Akijukan  阿仁合で交換する急行もりよし

 阿仁合13:06発の急行「もりよしに乗る。2両編成の先頭車AN8903号車は客室の中ほどがサロン形式になっている。この列車も乗客は10名ほどなのでサロンのソファに座る。女性の車掌がお茶やお土産を積んだワゴンを押しながら車内を回る。物品販売係りと兼任だ。
 前田南(まえだみなみ)付近から右方向に、雪をかぶった森吉山(標高1454m)が遠望できる。この山の名前が急行列車の愛称になっている。終点鷹巣でホームを出口へと進むと、JRの改札口より点前に内陸縦貫線の改札口がある。
 東京から秋田新幹線で角館乗り換えでやって来たのだから下りに乗ったつもりだが、角館から鷹巣方向が上りとなっている。かって奥羽本線の支線だったからか。
 駅から徒歩約10分で鷹巣局へと散策。阿仁村、鷹巣町ほか2町村が合併して現在は北秋田市となってしまった。北秋田郡を訪問できなかった。
 奥羽本線下りの鷹巣14:52発普通列車で、今夜の宿である弘前へと向かう。

(旅した日:2007年3月5日)

2007年3月10日 (土)

秋北・津軽の旅

 大人の休日倶楽部会員パスで秋田県北部から青森県津軽地方を旅した。もちろんローカル鉄道に乗るのが目的だ。期間は3月5日から7日の3日間、今回の利用期間が3月2日~11日の中である。

 3月5日(月)は秋田新幹線こまち3号で大宮08:02発、角館10:49着で目的地へと入る。第3セクターの秋田内陸縦貫鉄道で角館から阿仁合で途中下車、急行「もりよし」へと乗り継いで終着は鷹巣である。
 奥羽本線の鈍行電車で弘前へ。駅前のビジネスホテルに2泊の宿を予約しておいた。

Stovetrain01 津軽五所川原のホームで出発を待つストーブ列車

 6日(火)は弘前始発の五能線で五所川原へと。今回の主目的である津軽鉄道のストーブ列車に乗って先ずは金木で途中下車。太宰治の出生地である斜陽館を訪ねてから津軽鉄道に乗り直し、終点の津軽中里まで全線を完乗する。
 帰りは津軽五所川原まで乗り通した。弘前へ戻る五能線の待ち時間がたっぷりとある。バスで木造の町(現つがる市)まで足を伸ばし、縄文埴輪が駅舎の全面に立つ木造駅から弘前へと戻った。

 7日(水)は弘前駅前からバスで弘前中央駅へ。弘南鉄道大鰐線で大鰐まで乗る。前回当地を旅した際(2006年3月)に弘南鉄道黒石線を全線乗っているので、同社の2路線を完乗したことになる。
 大鰐から奥羽本線の特急かもしか2号の自由席で大館へ。JR花輪線の快速で鹿角花輪へと乗り継ぐ。ここは元陸中花輪で、秋田県鹿角市だが南部藩域だったのだ。
 ここでも待ち時間が2時間以上もある。バスで十和田南まで戻り、次の上り列車で一部区間を2度乗りになるが盛岡へ向かう。列車は途中の好摩からは第3セクターのIGRいわて銀河鉄道を経由し、終点盛岡に着いた。昨日からここまで、当地でも今年初めてという雪が降り続けていた。
 東北新幹線盛岡始発のやまびこ64号で帰京した。大宮から埼京線始発の快速、新宿から小田急急行へと帰路も順調だった。

 今回の旅で乗った各路線については、続いて旅日記で紹介する。

2007年2月16日 (金)

五日市鉄道

 JR五日市線の前身である五日市鉄道について、~その開業当時と現在の変遷~と題した企画展があきる野市五日市郷土館で催されているとのニュースに誘われて出掛けた。
 八王子駅北口6番乗り場10:10発武蔵五日市駅行き(八20系統)の西東京バスに乗る。五日市駅11:05発五里18系統に乗り継いで五日市高校前で下車、警察署の裏に郷土館がある。

 配布された資料から、五鉄の歴史を簡単に辿ってみよう。
 五日市鉄道(通称、五鉄)は1925(大正14)年4月20日に、武蔵五日市=拝島間が開通している。五日市町の北にある勝峯山からセメント原料の石灰石を運び出すのが目的だった。同年9月には武蔵五日市から勝峯山の麓である武蔵岩井までの大久野線も開通させている。立川=青梅間の青梅鉄道は1894(明治27)年11月に、すでに開通していた。
 ドイツ製コッペル蒸気機関車2台、40人乗り客車6両で1日6往復で開業、無蓋貨車8両も入れて操業を開始。1927(昭和2)年4月には40人乗り瓦斯輪動車(ガソリンカー)2両と国鉄の中古蒸気機関車も2両を追加した。続いて80人乗りガソリンカー2両も追加されている。

 1930(昭和5)年7月には拝島=立川間に、青梅線とは独立したルートで延長した。武蔵五日市=拝島:11.1km。武蔵五日市=武蔵岩井:2.8km。拝島=立川:8.1km。総延長22kmの路線を持っていた。さらに武蔵田中=拝島多摩川間の砂利運搬の専用線もあった。
 1940年9月、政府の企業統合政策に基づき浅野セメント系列の南武鉄道に吸収合併された。太平洋戦争中の1944年4月に国有化され、ガソリンカーも廃止。10月には不要不急線として拝島=立川間を営業休止、レールも供出させられる。
 一時は気動車(ディーゼルカー)も走ったが、1961年4月17日に全線電化され、40系の電車が走った。当時の写真にはC11蒸気機関車も写っている。1971年には武蔵五日市から東京までの直通運転が始まった。
 1982年11月には大久野線が廃止になり、貨物輸送も終わる。
 1987年には西秋留が橋上駅舎となって秋川駅と改称、1996年に武蔵五日市駅も立体化し、駅周辺の区画整理が進んでいる。

 郷土館を出ると、前庭に旧市倉家住宅が移築保存されている。バス停前の古い柱時計を集めた骨とう屋さんを冷やかして、12:50のバスで駅に戻った。武蔵五日市駅前局の寄ってから、13:52発で秋川へ。現在は201系6両で運行されていて、女性の車掌さんだった。秋川駅の南口から秋川街道を約5分で西秋留局、北口へ回ってあきる野局にも寄った。北口は広々として、周辺の道路はタイルを引き詰めた綺麗な駅前である。
 秋川15:01発は、さっきと同じ車掌さんだった。拝島に着くと、2番線に「試運転」の189系・183系列車が立川方面から入り、青梅線へと出ていくのに出会った。

Photo  拝島駅西口前を左折、交番で「五鉄通り」という道路標識を訪ねたが分からない。裏の駐輪場に回ると、そこに五鉄通りだった。タイル敷きの遊歩道になっている。管理人の小父さんの話では、中神に機関車も置いてあるとのこと。後日、訪ねることにしよう。
 昭島松原四局に寄ってからバス発着場に行くと、15:38発八王子北口行きのバスがある。1日1本という閑線ダイヤ、これで八王子へと戻る。約1時間もかかったが。
       (訪れた日:2007年2月16日)
 

2007年2月13日 (火)

小田原散策

 今年は暖冬の影響で植物の開花が早めだという。小田原城の梅園はどうだろうと、お天気も穏やかなので出掛けてみた。
 町田10:08発の急行は空いていて座れた。小田原駅南口を出てすぐに右へと進み、旭丘高校に突き当たって右に回り込むとお城の北入口である。江ノ島から勧請したという弁財天曲輪を左に眺めて坂道を登って本丸広場に至る。いつも東海道線の車窓から眺める天守閣が目の前に大きくそそり立っている。入るのは有料(400円)だという。復元したものだし、あの急な階段を登るのは遠慮して、動物園の象を眺めたりで初めての小田原城を味あう。
006  梅の花を見に来たのに、もう桜がピンクの花を咲かせているではないか。5分咲きというところか。妻は近くにある松の巨木にも興味をそそられた様子だ。

 常磐木門(ときわぎもん)をくぐって梅園にでる。こちらも5分咲きの状態だ。梅園の南側のびゃくしん、北測のいぬまきの巨木が見事である。
 いぬまきのそばに建つ歴史見聞館(入場料300円=JAF割引で270円)で小田原城の歴史を見聞する。15世紀に北条早雲によって建てられたあと、越後の上杉に攻められたり、甲斐の武田、駿河の今川と甲相駿三国同盟を結んだり戦ったりと、映像やジオラマも用いて分かりやすく解説されている。
012  一夜城で有名な秀吉の攻めに陥落、徳川の世になってからは大久保、稲葉と城主が変わりながらも明治まで続く。明治になって売却?された天守閣は昭和35年に復元されたもの。
 銅門(あかがねもん)から二の丸広場、馬出門(正門)へと出る。銅門の梁には太い松材が使われている。

 城の見学が終わったら、次は町の散策である。裁判所の脇から国道1号線に出て南へと少し歩くとT字路、その先に小田原宿なりわい交流館なる無料休憩所があった。表の軒先は小田原独特の「出桁造り」だというが、中に入るとその梁はつながっていない。
 お茶の接待を受けながら、東海道小田原宿について雑学を仕入れる。この宿には本陣が四つ(清水彦十郎本陣、久保田甚四郎本陣、長岡永左エ門本陣、清水金左エ門本陣)、脇本陣も四つあった。さすがに東海道小田原宿である。
 最後の清水金左エ門は街の筆頭で、その本陣には京都から江戸(後の東京)への遷都のおりに明治天皇が泊まったとのこと。宮ノ前行在所跡として小さな公園になっていた。隣の VeryOne なる新築1ヶ月だというレストランにて昼食とした。本陣跡の隣としては相応しくないが、木地の街らしく瀟洒に木材を使った喫茶店だか、夜にはバーなのかと連想させる雰囲気でもあった。

 小田原本町郵便局で旅行貯金、国際通りを北上して東町通りから駅へと引き返した。そう言えば駅ビル4階のトイレも、若者向きの流行の商品を扱うテナントとは異質の、木材をふんだんに使った造りである。
 小田原15:27発相模大野行きの急行、相模大野で藤沢からの快速急行に乗り継いで町田へと帰り着いた。 (訪れた日:2007年2月13日=火)

 

2007年2月11日 (日)

美濃赤坂散策

 第3セクターの樽見鉄道には乗ったが、大垣を訪ねたもう一つの目的は「東海道本線の線路の終端」である美濃赤坂支線を訪ねることである。昼間はダイヤの間隔が長いので、大垣からの行きは路線バス利用とした。
 大垣駅前から名阪近鉄バスの池田温泉行き14時丁度発に乗り、赤坂新橋バス停で降りた。まずは赤坂郵便局へ。

 局前の道を美濃赤坂駅の方向に歩き出す。脇の小川、というかどぶ川は近くの石材工場からの排水のためか白く濁っている。「放流した鯉を大切に」との看板が立っていたが、魚が住めそうな水ではない。
 橋のたもとに「赤坂港跡」なる小さな水際公園がある。常夜灯も立ち、ここがかっての杭瀬川の水運による港の跡だという。このどぶ川で水運? 現在の杭瀬川の本流は、先ほどバスを降りた土手の方に移ってしまったのだ。夏にはほたるの名所でもあるとか。
 きょろきょろして写真を撮っていると、角の仕出しやから男性が出てきて、案内図を示しながら親切に説明して下さる。この道が旧中山道だったのだ。貨物線の踏切を渡るとすぐに公園があり、ここが本陣跡。本陣を偲ばせる建物などはないが、町並みには街道の宿場の雰囲気を残した建物が沢山残っている。
 東は美江寺、西は垂井の宿場と案内にある。美江寺といえば、さっき樽見鉄道で通った町ではないか。

 小さな四つ角にも碑が立っていた。北へ行くと西国三十三ケ所巡礼の満願成就の寺、谷汲山華厳寺への道、南は養老方面への街道の分かれ道だったのだ。谷汲口も樽見鉄道で通ったっけ。家の壁がかんぬきを填め込んだような独特な板張りが珍しかった。養老方面へ少し歩くと、JR美濃赤坂駅だ。駅舎も歴史を感じさせるものだったが、旅客扱いは無人。

Yahasi  電車が来るまでには時間があるので、駅前広場の隅に建っている喫茶店に入る。そこのご婦人に聞くと、間もなく石灰石貨物列車が出発するとのこと。なんと喫茶店の入口には、貨物列車の時刻表も掲示してあった。妻を店に残して飛び出す。JR貨物のEF64が牽いてきた列車を、石灰石会社のDLに付け替えて出発するところだった。ホキ9500系の貨車は赤茶色に塗られ、矢橋工業株式会社と社名が入り、乙女坂駅常備。それの長大編成の列車が石灰石を積み込みに専用線へと出ていった。郵便局・ATM案内の地図には、西濃鉄道市橋線とあるが、旧中山道との踏切のわきには旅客駅の跡だと案内が立っていたけど。

 313系2両編成の電車が入ってきた。天下の東海道本線に線路が終端する駅があるのだ。折り返し美濃赤坂15時43分発大垣行きの運転手は若い女性だった。樽見鉄道でも女性の気動車運転手に出会ったが、JR東海の電車にも女性が活躍しているのだ。
 大垣15時55分始発の快速豊橋行きで名古屋へ。新幹線で新横浜経由、町田へと帰路につく。 (訪れた日:2007年1月26日)

 

2007年2月 5日 (月)

樽見鉄道に乗る

 昨夜泊まった下呂から高山本線で岐阜、東海道本線を乗り継いで大垣に。初の訪問地である。まずは大垣駅前郵便局大垣郵便局と、ご当地訪問の記録を残してから、今回の旅の主目的なる樽見鉄道を目指した。
 数台のJR自動切符発売機をずらりとなめ回し、右端のスクリーンの隅っこに「樽見鉄道」のブロップを見つけた。JRの自動改札を通り、6番線へと急ぐ。大垣10:37発(列車番号13)の樽見行きはハイモ230-312が1両、ホームの先に待っていた。

 運転手は毛を後ろに垂らした女性だった。電車の運転手には女性も見掛けるが、気動車では初めてお目に掛かる。路線バスでは珍しくないので、これもレールバスなのだ。発車してしばらくはJRの線路に並んで走る。揖斐川の鉄橋を渡るとJRから離れて穀倉地帯を行く。田圃に混じって柿畑も多く見られる。

 美江寺(みえじ)は中山道の宿場があったところ、お寺は斉藤道三が岐阜城を築くときに城下へ移してしまい、いまは名前のみ。廃止された名鉄揖斐線のガードを潜ると北方真桑(きたがたまくわ)、まくわ瓜の産地だという。側線に客車オハ14系が3両、留置されていた。次のモレラ岐阜で、もともと少なかった乗客の殆どが降りてしまう。駅は畑の中だがホーム下にテント小屋があり、自転車置き場兼用で切符を集める人がいるみたい。テントの先は大きなショッピングセンターである。

 本巣(もとす)が樽見鉄道の車両基地だ。上りと交換したが、ここまで運転してきた女性運転手は降りてしまい、若い男性運転手と交代した。構内にはDLに牽かれる客車やトロッコ列車などが並んでいた。木知原(こちぼら)を過ぎると山が近づき、トンネルを潜って谷汲口(たにぐみぐち)で、ここの側線にもオハ50?系の客車が置いてある。

 根尾川に沿って谷間をトンネルと鉄橋(番号が付いている)でしばらく登ると終点樽見(たるみ)だ。全行程34.5kmを1時間5分で車窓を楽しんだ。無人駅だが、駅舎はとんがり帽子の6角形で洒落たもの。駅前には鉄道と接続しているうすずみ温泉行きのバスが待っていた。薄墨桜が有名なのだが、季節が違う。線路を潜って1分ほどの先に、根尾郵便局がある。16分の折り返えし時間で十分余裕があった。

 運転台の写真を撮らせてもらうと、くつろいでいた運転手氏が帽子をかぶり手をノッチに乗せて下さり、恐縮する。終点一つ手前の水鳥(みどり)駅の脇に、「断層博物館」なる建物を見つけた。時間があれば是非見学したいところ。帰り(樽見11:58発16列車)は気楽に車窓を復習する。

056  本巣駅では5分ほど停車。その間に、後ろから1両のハイモが近づいてくる。しかし、連結はしない。本巣止まりの下りが着くと、乗客の一部はそれに乗り換えている。時刻表を見ると、下りが3本、上りが1本、直通しないで本巣で乗り継ぐダイヤになっている。何故?
 交換できる駅の複線部分が長い。乗ったのは1両ワンマンだが、トロッコ列車は機関車が数両の客車を牽くので、それだけの長さが必要なのだろう。

 大垣13:02着。続いて美濃赤坂まで足を伸ばすつもり。行きはバスを利用する予定なので、それまで駅ビル3階の蕎麦屋で遅い昼飯だ。鳥蕎麦は美味しかった。

 岐阜県には第3セクターが4路線あった。数年前に乗った神岡鉄道が止まってしまい、今回樽見鉄道に乗れたので残るは明智鉄道長良川鉄道だ。次はどれに乗ろうか。いつまでも頑張っていてほしい。

2007年1月12日 (金)

鹿島鉄道を訪ねて

 常磐線の石岡から鉾田まで、茨城県内を走る私鉄「鹿島鉄道」が本年3月末をもって廃止になるとのこと。鹿島臨海鉄道大洗線に乗った時から次に訪れたいと願っていた路線である。廃止が迫るとファンが集中するのでその前にと1月11日に妻と一緒に乗ってきました。
 上野を常磐線快速で石岡へ。駅近くの石岡郵便局へ寄ったのちに駅へ戻り、念願の鹿島鉄道へと跨線橋を渡る。

 石岡13:36発鉾田行きはキハ601単行のワンマン運転、外見は3ドアだけど乗り込むと中間ドアは閉めきりかロングシートに切れ目はない。乗客は2~30人ほどだったが、「ひたちおがわ」までに殆どが降りてしまい、あとは10人ほど。カメラをぶら下げた鉄ちゃん風の数名も乗り合わせていた。

 途中の「たまつくりまち」で下車した。ご婦人が駅務を預かっているようだ。記念に切符を欲しいとお願いすると、前途無効の印を裏の磁気面に押しても見えないからとそのままで頂けた。ファンの気持ちを理解されていて嬉しい。
 駅前の道を500メートルほど歩くと、突き当たりに玉造郵便局がある。初めての街を歩くのは楽しみだが、この町も寂しさを感ずる。一緒にこの駅に降り立った小父さんは、「街が死んでいるようだ、国の政策が悪い」と嘆いていた。現在は玉造市である。

 玉造町15:01発の下りで鉾田へ向かう。今度はキハ432、全面の姿は南部縦貫鉄道のレールバスを思わせる。石岡=玉造町の間は霞ヶ浦に沿った蓮田の田圃風景が続いたが、ここからは低い丘が続く中を緩やかな勾配でエンジンを吹かしながら走る。
 終点鉾田は単線のままで両側にホームがある。降車は右側で、反対側のホームには上りの乗客が待っていた。

 鉾田市内を散策、駅前郵便局から約1キロメートルの鉾田郵便局まで往復する。妻は例によって途中のスーパーを視察する。
 鉾田16:04発の上りはKR503号車、鹿島鉄道にとっては一番の新造車だ。車内外も電飾が施され、辺りが暗くなると車内は異様な雰囲気が醸し出される。途中で乗り降りする高校生たちは慣れているのか、あまり意識されてはいないようだ。暗くなって気がついたが、いくつかの駅舎も電飾が施されていた。

C7_043

【写真】 電飾を施されたKR502(右=下り鉾田行・日出の飾り)とKR502(左=石岡行・筑波山の飾り)=常陸小川にて

 霞ヶ浦を前景に筑波山が遠望できる区間が続く。運転席わきの窓からカメラを構えるが、揺れる車内からの写真はブレて駄目。常陸小川駅構内ジーゼル機関車DD901やホッパー車2両が保存されている。下りと交換する待ち時間に撮影を試みたが、置いてきぼりを気にしてかこれも手ブレがひどい写真となった。
 ここから車掌が乗り込み、乗車券を確認していた。

2006年12月31日 (日)

簡易郵便局

 今年6月に日本郵政公社が簡易郵便局の受託者を対象に実施した内部調査とその後の追跡調査によると、簡易郵便局約4400局のうち、10%を超える500局ほどが一時閉鎖になる可能性があるとのこと。(2006年12月30日付け共同通信社の報道)

 私はローカル鉄道に乗ることを楽しみの一つとしている。その路線に乗った証明として、下車した駅の近くの郵便局で旅行貯金をする。駅から郵便局まで歩く道のりも、その土地を知る小さな旅となる。鉄道の旅だけでなく、ドライブで訪ねる土地にも郵便局はある。
 都会の郵便局では混み合ってもいるし、ゆっくりと話をするには待っている他のお客さんに迷惑が掛かるので遠慮してしまう。旅先で訪れた郵便貯金の窓口で、係りの方と交わす会話も楽しいのだ。

 一口に郵便局と言っても、県庁所在地の中央郵便局、公社直営の普通郵便局特定郵便局と種別はあるのだが、鉄道旅行では駅前郵便局または駅舎の中にある駅内郵便局を訪れる機会が多くなる。どの郵便局でも旅行の記録としては大事な一局ではあるが、私が一番魅力を感ずるのは簡易郵便局なのである。

 入口のドアを開けて入ると窓口が一つ。しかしカウンターの中には人がいない。そばにある呼び鈴のボタンを押すと、やおら障子を開けて局員が出てくる。局員といっても、その家のおかみさんだったり、お嬢さんだったりで、たまにおじさんの場合もあるが、いずれも普段着のままである。

 最初に「貯金もやってますか?」と聞く。カウンターの中を覗けばATMのあるなしでも分かるのだが。「ここは何村(町)ですか?」「何郡ですか?」--「何市です」といった会話から、土地の話に移って行く。この雰囲気が楽しいのだ。
 28日に山梨・笛吹から東京・町田へ移動する途上で、軽乗用車だったので大月市内の簡易局を2局訪ねたばかりだ。いずれも狭い山道(一つはこれでも国道だった)を奥深く入り込んだ土地にある局である。
 軒先に突き出た局舎(といても幅1間ほど)の扉に手を掛けたが開かない。と、脇の玄関が中から開いて「郵便局に御用ならこちらからどうぞ」とご婦人が出てきた。中へ入ると立派な土間が玄関だ。正面には時代を感じさせる大黒柱がでんと立っている。建ってから200年ほどだという旧家だという。奥からお祖父さんが出てきて、お嫁さんかお嬢さんとおぼしきご婦人にATM操作などを手ほどきして処理してくれた。
 その間、上がりがまちでお茶までご馳走になって話し込む。こんなほほえましい、家庭的な簡易郵便局もあるのだ。

 簡易郵便局は個人が委託を受けている場合が多いが、農漁村に行くとJA(農協)の支所に開設されている局もある。JAの場合は自前の共済関連で金融機関の機能があるので、郵便貯金を営んでいない局が多い。
 またひなびた農漁村ばかりではない。東京23区内にもある。新宿東口の駅ビル、西口のデパート内、荻窪駅ビルと隣のデパートとをつなぐ渡り廊下にもある。これらは窓口もいくつかあり、利用者も数人は待っているという特定郵便局と変わりはない。

 楽しくて魅力的な簡易郵便局が多いけど、問題もあるのだろう。委託を受けた個人も老齢化は進んでいる。後継者がいる場合はよいが、若者は別の仕事に家を出てしまうケースも多いのだろう。それに利用者である土地の人口も過疎化が進んでる。
 郵政公社が民営化で地方のサービスを低下させないというが、それとは関係ない理由で簡易郵便局が休止、閉鎖、廃止という状況があることも、実感として受け止めざるを得ないのも事実だ。
 それと同時に、私が旅を楽しむローカル鉄道そのものが、休止や廃止に追い込まれている現実も寂しいのだが。

2006年12月19日 (火)

足寄の思い出

 あまり眠れないままにつけたラジオ、NHK今朝03:00からの「ラジオ深夜便」は「シンガー・ソング・ライター」として松山千春さんの特集でした。寝床の中で聞きながら、今年の4月に足寄に立ち寄った時のことを思い出していました。

 一週間後に休止になる北海道ちほく高原鉄道(ふるさと銀河線)の乗り納めに出かけました。昨年(2005年)6月にも釧路から釧網本線で網走経由、この線には乗っていますが、本別を除いて途中で下車していませんでした。前回とは逆向きに、始発の池田から本別、足寄、陸別と途中下車しながら終点北見まで全線を乗りました。足寄でも例によって郵便局へ寄り、旅行貯金をしたあと隣の町役場で観光案内を求めたり。
 途中で見えた十字架をたよりに訪れた教会、メノナイト派の教会でしたが、婦人会が中心となって喫茶会の最中でした。立ち寄ってケーキとコーヒーで一休みのときを過ごしました。

Ashorostn  写真はちほく銀河鉄道の足寄駅。立派の建物です。2・3階は公共的に使われているようでしたが、鉄道がバス路線に変わった現在はどのように活用されているのでしょうか。左に小さく立っているのが、足型採取のプレハブ小屋です。

 この町は歩道が整備されていて、さらに足型を残したセメントタイルが沢山埋め込まれています。駅に戻ると「足型採取中=日本足型協会」と書いた幟が沢山立っています。駅の西口側を探索していると、線路端にプレハブ小屋が建っていて小父さんがお弁当を食べていました。その中では緑色のセンメントで足型を採ってくれるのです。
 次の列車までには十分の余裕があるので、私も足型を採ってもらいました。脇には既に採取済みのセンメントタイルが積み上げられていました。来月には私の足型も一緒にどこかの歩道にはめ込まれるとのことでした。私が足寄に立ち寄った記録は、旅行貯金の通帳だけでなく、地元のどこかの道ばたにもタイルとなって足跡が残ることになったのです。

 駅舎の中や、街角にも「松山千春記念館」のポスターが張り出してありました。駅からは一寸遠い感じがする場所にあるようです。歌手としての名前は聞いたことがありましたが、彼の歌を聴いたことはないし、足を伸ばしませんでした。
 彼の背丈より高いラワン蕗を背にして立つ松山千春のイメージは、今でも印象に残っています。今朝の放送を聞いて、初めてこういう歌を歌う歌手なのか--と知った次第です。

 訪ねた時:2006年4月12日

2006年10月16日 (月)

多摩の散策ー近藤勇の墓

 新撰組や近藤勇に特別の関心があるわけではない。ひょんな行きがかりで府中市、調布市、三鷹市の入り組んだ土地を散策してしまった。
 先日に続いて今日(10月16日)も多摩地区の未訪地を訪ねようと出かけた。途中でついでに世田谷・下北沢に住む姉の家を訪ねた。姉の知人の葬儀が多摩葬儀場で執り行われると知らせがあったが、そこへの道順が分からないという。それで今回は西武多摩川線でも訪ねて、その途次に葬儀場の場所を確認してあげることにした。

 京王井の頭線で吉祥寺へ。JR中央線で二駅先が武蔵境だ。改札を入って直ぐのホームに上がったら、そこは三鷹止まりの緩行線ホーム。すぐに地下鉄05系が入ってきたので乗ってしまう。快速線にも下りが入ってくるのを眺めながら、どうしようもない。終点三鷹で隣の快速線ホームへ急ぐと、直ぐに先ほどの下りが追いかけて来た。
 急ぐことはなかった。ここで青梅特快を待ち合わせてからの出発だ。特快は次の武蔵境には停車しない。北口の武蔵野境郵便局へ寄ってから、南口へ出直す。西武多摩川線は、関東地区私鉄各社(もちろん西武鉄道も)で利用できるパスネットが通用しないのだ。出札機で170円の切符を求める。
 JR線が高架化工事を進めているのに合わせて、多摩川線武蔵境駅も高架部分は出来上がっている様子。駅舎の整備工事中である。両線の工事に挟まれた単線行き止まりの狭いホームから、1000系4両編成の列車が12分おきに発車している。出発して振り返って見ると、高架部にレールも敷設済みだ。

 多摩(旧多磨墓地前)駅で下車。東京近郊では見掛けなくなった遮断機付きの構内踏切を渡って上り線ホームの改札口へ出る。人見街道を少し多磨霊園方向へ歩くと、信号の左に府中紅葉丘局がある。局員に葬儀場の場所を尋ねると、親切に道順を教えてくれた。
 先の境局にしても、紅葉丘局にしても貯金窓口の利用者が多く、10人近い待ち人がいた。都市の郵便局は住民にとって必要な機関なのである。いずれの局も待たされた時間が長かったので、多摩川線の先、是政方面は時を改めて乗りに来よう。
 教えられたように多磨霊園東通を進むと、信号を二つも越えた先に葬儀場があった。事務所の人に聞いて、ここまで来たのだからと新撰組組長、近藤勇の墓を訪ねることにした。葬儀場手前の角を東へと歩き、西武線の踏切を渡る。この道は多摩町(たまちょう)通と名付けられている。左側にアメリカンスクール、都立野川公園と続くが、これらは調布市である。
 多摩町通と人見街道とが合流する角に、近藤勇の生家跡や産湯の井戸跡などがある。人見街道も多摩駅の踏切あたりは細い道だったのに、このあたりは2車線の立派な道路である。これを更に東へ200メートルほどの左側に、近藤勇の墓所、竜源寺がある。近藤勇は官軍側に降伏した後、首を切られたのは板橋。JR埼京線板橋駅東口前にも他の隊士と一緒の墓がある。

 人見街道を基督教大裏門で東八道路に出て、天文台北交差点まで歩く。天文台通を100メートルほど南へ下がるとバス停がある。京王バスの武蔵小金井駅北口=調布駅北口線は「大沢十字路」、小田急バスの武蔵境駅=狛江駅線は「大沢台小学校」と、同じ停留所に2本のバス停標識が並んで立っている。ここは三鷹市だ。
 多摩駅から府中市、調布市、三鷹市と約3Kmほど歩いたことになる。万歩計を忘れたので、歩数はわからないが、1万歩は越えただろう。
 調布駅では地下道を潜って南口にでる。小田急バスで成城学園前へ。この路線は品川通から国領で右折して狛江通を南下し、松原交差点で左折して北上、仙川駅入り口を回ってから再び成城学園前へと南下する。所要約40分であった。
 小田急成城学園前駅ビルが完成したばかり。三省堂などを覗いてみた。

2006年10月 9日 (月)

信州峠を越えてドライブ

 今日、「体育の日」の甲府盆地は雲ひとつない晴天。南アルプスと八ヶ岳を眺めようとジムニーで出かけた。信州峠から長野県南佐久郡の川上村を通り、大弛峠を越えて山梨県に戻るというのが予定のコースである。中央道を一宮御坂で入り双葉SAで降りる(ETCが付いている)。側道を進むと某病院の前で道が行き止まり、茅が岳広域農道へ移る。
 旧明野村地内を走ると左側に展望台がある。ここからだと高圧線の鉄塔などが入らずに南アルプスが一望できる。白根三山は鳳凰山系に隠れて見えないが、薬師・観音・地蔵の鳳凰三山、あさよ峰をわたって甲斐駒ヶ岳、鋸岳と鮮明に飛び込んでくる。

 甲斐駒ヶ岳には、会社の同僚上田君と登った山だ。飯田線の伊那からバスで戸台まで入り、戸台河原を詰めて北沢峠、仙水峠を越えて山頂、武川村の柳沢へと下山した。2泊3日のうち、甲斐駒ヶ岳を攻めた2日は小雨混じりのガスの覆われていた。
 鳳凰三山は会社の仲間、塩沢さん、篠山君との3人だった。芦安の桃の木鉱泉から夜叉神峠に取り付き、後は尾根伝いに南鳳凰小屋を経由して三山を歩いた。地蔵岳からドンドコ沢を直に下って青木鉱泉にたどり着いたのだ。

 デジカメを3台も持っていながら、この絶景を前にして2台は電池切れ。準備なしの思いつきドライブの悲劇である。写真はあきらめて、さらに先へと進む。2ヶ月前ならヒマワリが咲き誇っていた駐車場からは、八ヶ岳の南面がバッチリと眺められた。
 須玉町に入り塩川渓谷を遡る。今日は増富温泉には寄らずに、ダムの前を左折して県境の峠を目指す。途中までの道路は、広くはないがよく整備されている。右方向に岩だらけが特徴の瑞がき山がよく見える。

 県境の信州峠を過ぎると、なだらかな道がキャベツやブロッコリー畑の中を下っている。野菜収穫用の大型農事車を避けながら川上村へと出た。こんどは千曲川の上流を遡る。さっきまでの塩川は釜無川、富士川となって駿河湾、すなわち太平洋側へ流れている。千曲川は、なぜか信州・長野県を過ぎて越後・新潟県に入ると信濃川と名を変える。そして日本海へと流れ込んでいる。信州峠は分水嶺でもあるのだ。

 川上村から見る八ヶ岳もすばらしい。南八ヶ岳の山並みが東側から一望できる。かって青年会の仲間、小川、三和両君と一緒に硫黄岳、横岳、赤岳と縦走した稜線がくっきりと見える。そんな思い出話を助手席の妻に話しても、暑さにやられてぐったりしているせいか、上の空で聞いている。「どうせ若いときの話でしょ・・」と。
 登ったことがある山並みに出会うと、若かりしときの山行を懐かしく思い出すのだ。

 川上村役場を過ぎてしばらくすると、峠道の道路状況を示す案内板があった。なんとそこには、埼玉県大滝村へ抜ける三国峠と、山梨県山梨市(旧三富村)へ抜ける大弛峠は通行禁止と大きく出ていた。国師ケ岳と金峰山との間を抜ける峠道だけに、数日前に関東地方の東を通過した低気圧による大雨で荒れているのであろう。予想はしていたのだが、残念。引き返しだ。

 帰りは野辺山経由とした。野辺山駅前の駐車場に車を止めて駅前の公園を散策。かって小海線で活躍した蒸気機関車C56-96号機が生態保存してある。屋根付きで綺麗に整備しである。隣の清里高原にある同型の機関車とは段違い、あちらは露天にぼろぼろの状態で放置してあるというのに(http://plaza.harmonix.ne.jp/~kohno-k/traintop/hozon/hozon_ymns.htm)
 もう一つ、海軍予科練の記念碑が建っていた。近くにある電波天文台がある。太平洋戦争も戦況が悪化した昭和20年春から、三重海軍航空隊野辺山分遣隊として特攻ロケット兵器「秋水」搭乗のために、グライダー訓練をしていた跡地であることは知っていた。その内容は別の項(http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/tabi03.html)に紹介したことがある。平成元年に建てられたこの記念碑は、新発見であった。
 SLとこの記念碑発見は、今日のドライブの収穫である。

2006年10月 4日 (水)

小旅行=多摩散策

 雨模様が続いていたが、この日(2006年10月3日=火)は曇ってはいたものの雨は降らないとの予報に、未訪だった多摩地方の市を訪ねる散策に出かけた。もちろんその記録にと、郵便貯金通帳に郵便局名印を増やすのも楽しみである。

 町田から横浜線・中央線と乗り継いで、立川駅北口へと降り立つ。多摩都市モノレールで立川北駅から先頭車の運転室すぐの座席に、前方を眺めなを楽しんで終点の上北台で下車。これでモノレール線を完乗かと思ったが、JRを跨ぐ立川南・北駅の間がまだだった。次の機会に。
 駅近くの東大和上北台局が今日最初の訪問局となる。西へ向かって歩き出し、公社住宅団地を過ぎるとさらに大きな都営村山団地がある。ここから武蔵村山市に変わる。ショッピングセンターの一角にある村山団地局へ寄り、欅並木が続く緑道を北上する。由緒ある武蔵野の道かとすれ違った人に尋ねると「団地と一緒にできた道、元は畑だった」という。それにしては立派に生い茂った欅である。新青梅街道に突き当たって左折すると、武蔵村山局だ。隣の東大和市と2市にまたがる集配管轄局である。
 団地北バス停から立川バスにて玉川上水駅北口へ。交番で郵便局を訪ねたが、近くにはない。西武拝島線の北側は東大和暑の管轄、南口は立川市である。鉄道の駅にはよくある付近の案内図がない。モノレール線は芋窪街道の上を通るのだが、道路の方は玉川上水で直交する西武拝島線で南北に分断されている。

 南口の玉川上水を眺めてから駅のマックで軽くお昼。西武線で小平へと向かう。小平=玉川上水間は黄色い2000系が頻繁に往復している模様だが、乗ったのは拝島発西武新宿行きの急行で、ブルーの帯の9000系10両編成だった。
 小川にて西武国分寺線と、萩山にて西武多摩湖線と、そして小平にて西武新宿線の本線と、拝島線は3カ所で路線が交差・分岐するが、すべて複線同士の平面交差である。調布や府中で平面交差の分岐する京王電鉄線と似ている。
 私の最寄りで利用する小田急線は、新百合ヶ丘でも相模大野でも立体交差になっている。平面交差の路線では、列車ダイヤを組むのに配慮すべきファクターが多くて大変だろうな--と余計な心配もしたり。

 駅北口の階段を降りると目の前に小平駅前局がある。階段の上り下りがしんどいので、駅西側の踏切を渡る。踏切の先は小平霊園へ通ずる広い道だ。小平から所沢へと向かう。
 途中の東村山駅では国分寺線が合流、西武園線が分岐するが、いずれも単線の片方向分岐で難しくない。所沢駅の南側では、この駅で交差する池袋線が立体交差で新宿線を跨いで西所沢方面へと向かう。駅西口へ出たが、ここにも付近の案内地図はない。市役所案内センターで地図を探したがなく、係りの方が親切にも外まで出て郵便局への経路を説明していただいた。
 まず南へ下がって所沢東住吉局へ。途中には元電車整備基地らしき施設があり、架線も残っている。そこへの側線跡も残っていた。西武、丸井とデパートの前を北上し、ダイエーの手前にある所沢日吉局に寄る。駅へ戻る商店街の煉瓦道には、航空発祥の地を示すプレートが大小、埋め込まれていた。

 西武新宿線で清瀬へと向かう。改札口を出ると、コンコースに西武線の駅では珍しく付近案内地図があった。北口方面に清瀬局があるようだが、残り時間と疲労度を勘案して南口ロータリーのわきにある駅前局で我慢する。パチンコやの裏の路地を入った場所にあり、探しにくかった。平成9年版の5万分の1地形図にも載っていない。
 さらに1駅のって東久留米駅へ。東口へ出て見当をつけた局へと向かうが遠そうだ。時計を見ると15分ほどしか余裕がない。急いで駅へ引き返し、西口の住宅街を彷徨いながら東久留米本町局でぎりぎり間に合った。

 16時で郵便貯金の窓口は閉まってしまう。あとは今日の旅のもう一つの目的である路線バスの旅だ。西口ロータリーへ戻ると、武蔵小金井行きの西武バスが待っていた。飛び乗るとすぐに発車、地形図とにらめっこしながらどの道を走っているのかを確認するのだ。見知らぬ土地をバスで旅するときの楽しみの一つなのだ。
 小金井街道を横切り、ひとつ先の道を南下し、滝山団地の中央を突破する。東京街道を通って小金井街道に出る。あとは真っ直ぐに武蔵小金井北口へと南下した。

 JR中央線は高架化工事でわき目にはハチャメチャの様子。武蔵小金井駅北口から京王バス調布駅北口行きへと乗り継ぐ。バスは踏切を渡らずに武蔵小金井電車区の下を地下道で潜り、市役所の前を過ぎてから小金井街道へと出る。多磨霊園入り口で東八道路へと左折して運転免許試験場を過ぎると天文台通りへと右折、中央高速の下を潜ると同時に国道20号を横断し、狭い道を通って甲州街道の旧道へ出る。調布駅北口が近づくと狭い旧道は混雑している。

 終点で降りてから旧甲州街道へ戻り、西友の前から今度は小田急バスの武蔵境駅発狛江駅行きの客となる。旧道を東へと走り、国領駅入り口で右折して踏切を渡る。国領駅南口ロータリーへも立ち寄った後は狛江通りを直進、松原交差点右折して福祉会館通りへ回り込んで小田急狛江駅前のロータリーが終点。
 箱根そばで軽い夕食をとり、各駅停車で座ったまま町田駅へと帰り着いた。途中で追い越される急行の混み具合を横目に見ながら。

 これらの路線バスには、東京都発行のシルバーパスを利用しての旅。
 今度の旅で訪れた市と郵便局は:
  東京都 東大和市  東大和上北台郵便局
       武蔵大和市 村山団地局  武蔵村山局(集配局)
       小平市    小平駅前局 (2局目)
       清瀬市    清瀬駅前局
       東久留米市 東久留米本町局
  埼玉県 所沢市    所沢東住吉局 所沢日吉局
 締めて6市(うち5市は初訪問)、8郵便局を訪ねて、成績は1,028局となった。
 乗ったバス路線は、立川バス、西武バス、京王バス、小田急バスの4社各1路線づつであった。

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