多摩送信所跡を探索
町田市の北部、相原地区の歴史を訪ねる企画(まちだ史考会主催=町田市制50周年市民協働事業)に参加し、久しぶりにちょっとしたウォーキングを楽しんだ。JR相原駅から町田街道に沿って、主に社寺仏閣を訪ねるものだった。私の参加の主目的は、訪問先に「多摩送信所」という場所が含まれているのに興味を覚えたからである。
行程の中間にあたり、お弁当を食べる予定地であった法政大学の敷地内にそれがあるのだ。
法政大学が多摩キャンバス設置にあたって整備した「多摩送信所跡」の記念碑の前で史考会の方が説明され、KDDに勤めておられたO氏が補足された。碑にもその詳細が説明されているので、それを紹介しよう。
多摩送信所跡
第二次世界大戦末期に近い1944年(昭和19)、本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信所の建設が着手された。当時の東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地七万四千坪(244、000平方メートル)を確保し、高さ60メートルの木支柱を立て、空中戦6基を樹林にめぐらした。技術者、職員50名が勤務する局舎を点在させ、翌年4月竣工した。5月5日から操業を開始した。
当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」および「東亜中継放送」があった。これらの対外送信は、1945年8月10日から15日の間、日本政府のポッダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした。政府の対外ルートとは別に、ポッダム宣言受諾に関するニュースを送り出したのである。
ここにあたった「多摩送信所」も木造、手動による回転式アンテナから電波を送ることによって、ポッダム宣言受諾の際に重要な役割を担い、1946年11月10日、開設以来1年半で活動の幕を閉じた。本学の多摩校舎は多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構も確認された。ここにその事歴を誌し、永く後世に伝えるものである。
1988年3月30日 法政大学
【説明の碑とアンテナ木柱の基礎】
当時、国際電気通信株式会社の送受信所として電話は送信所が茨城県の名崎と八俣、受信所が埼玉県の上尾、電信は送信所が栃木県の小山、受信所が埼玉県の上福岡にあった。空襲が激しくなる(と予想される)と、政府の命令でこれらの送受信所の一部機能を疎開することになる。1944年に足柄送信所、そしてこの1945年に多摩送信所であった。(KDD社史)
広大な敷地に高いアンテナ柱が林立する送受信所であり、精密な空中写真で知らないはずはない。だが、なぜかこれらの施設は空襲を受けていない。米軍は攻撃する意図はなかったのか。
1945年8月10日に政府がポッダム宣言の意向を固めると、それを知った同盟通信社の対外ニュース放送と日本放送協会(NHK)の対外放送はすぐにそれを速報した。NHKは2回で止められてしまったが。しかし、このニュースは全世界を駆けめぐり、ロンドン市内では大騒ぎだったとか。外地で戦闘中の日本軍も、(組織が保たれていた場合)軍上層部は通信隊がこのニュースを受けていて知ったが隊内には固く口止めされていた。
=歩いた日:10月25日(土)、歩数:19,000歩=



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