山梨平和ミュージアムにて
山梨平和ミュージアムにて、アジア太平洋戦争の戦争体験者お二人の話を聞く機会があった(2008年4月20日=日)。地元の新聞に案内記事が出ていたので、愛宕町教会の礼拝に出席した帰途に立ち寄った。
在原さんは833歳。1944(昭和19)年12月に召集で北支(中国北部)山東省無棣に駐屯していた衣第4294部隊で1期の教育を受けた。その新兵も実戦に投入される。行軍中に奇襲を受け、日本軍の服を着た敵の手招きに彼らの穴に逃げ込んで捕虜になってしまった戦友の話。(後で無残に吊るされた姿で発見される)
銃剣で民家の扉を開け、引き金に人差し指をかけたままで暗い室内を覗くと人気がする。逃げ遅れた老婆と幼い男の子が息をひそめて震えていた。外の戦友の声にそのまま出たが、誰もいなかったと報告するが戦友に嘘を報告する後味の悪さ。
数名の戦友と下士官の後についてさまよったすえに友軍の群れに出会ってホッとするが、逃亡兵と勘違いされたのか申告する下士官が中隊長に拳銃で射殺されてしまう。その中隊長は、数刻の後に古兵に手榴弾で処分されてしまった事件。
終戦後はソ連に抑留され、古瓶に手紙を書いて密かに川に流す。日本海に流れ、故郷の親に無事を伝えられないかと。
松尾さんは80歳。国民学校高等科2年で海軍少年兵を志願、横須賀海兵団、通信学校の教育を経て東部ニューギニア・ウエワクの特別根拠地隊に配属される。
B24やP38の大編隊による空襲で、陸軍の重爆や隼戦闘機など甚大な損害を受け、その敵戦果をオーストラリアからの日本語放送で知る。しかし、内地の通信隊からの「新聞放道」(日に2回のモールス平文放送を受信するのも担当だった)には入らず、数日遅れた同放送では「敵に与えた戦果は甚大で、我が方の損害軽微なり」との内容に、大本営の発表への信頼性を失う。
ウエワク沖の小島カイリル島で飢えと病気の苦しみの中に、17歳の時に終戦を迎える。
懇談の中で、「どの国の兵隊も悪いことをする。しかし一般の国民は悪くなかった」との実感を述べ、あの戦争体験から「日本は外国と戦争をする力はない。また他国が攻めてくる可能性は(資源的にも魅力は)ない。自衛隊は無意味、消防を強化すべきだ」との在原さんの発言には感銘を受けた。
山梨平和ミュージアムは、別名「石橋湛山記念館」として、彼に関する資料が常設展示され、企画展示として甲府空襲(昭和20年7月6日)の実情や甲府49連隊に関する資料も展示されていた。
このミュージアムは有志の努力で設立され、維持運営されているという。
【写真】 山梨平和ミュージアム(石橋湛山記念館)の正面。


昼休みにせっせと読んでいます。
(多喜男)
投稿: 多喜男です。 | 2008年4月22日 (火) 12時26分