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-天気予報コム-

2009年11月 4日 (水)

大人の休日倶楽部パスの旅記録(3)

 【2008年】

中部東北の旅 3月 夫婦二人旅
 東北新幹線の北上から北上線で横手へ。奥羽線普通電車で秋田へ、1泊。
 翌日は羽越線で羽後本荘に途中下車、由利高原鉄道鳥海山ろく線の矢島を往復。羽後本荘に戻り羽越線で余目に途中下車、さらに鶴岡まで乗り継ぐ。
 3日目は鶴岡から羽越線を酒田まで戻り、陸羽西線快速で古口へ。雪の降りしきる中を駅前散策、約2時間の待って次の普通列車で新庄へ。山形新幹線の始発電車で帰京。

岩手三陸の旅 6月 一人旅
 東北新幹線を新花巻で下車、釜石線で花巻へ出て市内を散策。釜石線で遠野へ、駅舎と一体のフォルクローロ遠野に泊まる。
 翌日は釜石線で釜石へ。山田線で吉里吉里とか本州最東端の駅岩手船越を通って宮古へ。路線バスで茂市へ。岩泉線で終点へ。この線は朝2往復、夕方1往復しか走らない。
 3日目は町営バスで龍泉洞を覗いてから同バスの終点小本へ。路線バスを乗り継いで再び宮古へ戻る。山田線で盛岡へ。東北新幹線の始発電車で帰京。

会津・越後の旅 12月 一人旅
 新潟新幹線の浦佐下車、信越線で小出へ。只見線で会津若松へ。
 翌日は磐越西線の快速電車で喜多方へ、ここまで電化されている。次の普通気動車列車で新津へ出て、信越線で東三条まで。路線バスで燕へ、弥彦線で一駅の燕三条まで乗って泊まる。
 3日目は燕三条から弥彦線で終点の弥彦を訪れたあと、帰りは東三条まで全線を乗る。信越線特急で直江津へ、普通列車で長野へ。篠ノ井線を特急で松本へ出て、中央線の特急と乗り継ぎ、八王子へと帰路につく。

=続く=

2009年11月 1日 (日)

大人の休日倶楽部パスの旅記録(2)

【2007年】

秋北・津軽の旅 3月 一人旅
 秋田新幹線で角館下車、第3セクターの秋田内陸縦貫鉄道で阿仁合に途中下車、終点鷹巣へ。奥羽線で弘前へ。
 弘前から五能線列車は奥羽線二つ目の川部にて反転し、五所川原へ。津軽鉄道ストーブ列車にて金木で途中下車し、太宰の生家を訪問の後、終点の津軽中里を往復。五所川原から路線バスで木造へ。埴輪が睨む駅から弘前へ戻る。
 3日目は市内バスで弘前中央駅へ。弘南鉄道大鰐線で終点へ。奥羽線の大館乗り換えで花輪線鹿角花輪へ。路線バスで十和田南へ戻り、再び花輪線で盛岡へ。

富山・石川の旅 6月 夫婦二人旅
 新潟新幹線越後湯沢から北越鉄道で北陸線の富山県高岡へ。城端線を往復。
 翌日は氷見線を終点まで乗り、能町まで戻る。少し歩いて万葉線新能町から射水市新湊庁舎前で途中下車してさらに海王丸へ。船を見学してコミュニティーバスで越の潟へ。市営フェリーで対岸を往復、万葉線で高岡駅前へ戻る。北陸線で加賀温泉へ、片山津へ泊まる。
 3日目は雪の博物館を見学した後、CANBUSで北前船の港を散策。加賀温泉から二日前のルートを逆行して帰京。

南東北の旅 12月 夫婦二人旅
 東北新幹線で福島へ。福島交通飯坂線で飯坂温泉へ、帰路は福島の1つ手前の曽根田で下車し市内を散策、市役所前から路線バスで駅へ戻る。阿武隈急行を全線乗って槻木へ、東北線で仙台泊り。
 翌日は仙台空港鉄道で空港を訪れ、帰りは長町で下車し市営地下鉄南北線の終点富沢に下車した後、仙台へ戻る。仙山線で山形へ、市内を路線バスで散策。
 3日目は左沢線を往復、帰路には寒河江で途中下車。山形城(霞城)から市内を散策。
山形新幹線で帰京。

=続く=

 

2009年10月31日 (土)

「終戦覚書」について

 岩波書店発行の雑誌「世界」創刊当時のものを探して、近くの図書館を訪ね歩いた。「世界」は終戦の翌年、昭和21年1月に創刊され、現在まで続いている。その年の3~5月号を探していたのだ。町田中央図書館には5号と12号だけあったが、目指すものは揃っていなかった。
 近傍の図書館まで蔵書検索をしていただいた結果、都立中央図書館(港区南麻布・有栖川宮記念公園内)、国会図書館(千代田区永田町)、それに近くの相模原中央図書館に「永久保存」されていることが分かった。国会図書館には1号から108号(昭和29年12月号)までがマイクロフィッシュで対応しているが、現物は見られないとのこと。
 昨日は横浜線淵野辺駅西口近くの相模原中央図書館を訪ね、調べものセンターのお世話になった。

 探していたのは、辰巳亥子夫氏の「終戦覚書」シリーズ、その中身は-
  その一 マリアナ敗戦余燼 (昭和21年3月号)
  その二 決戦か終戦か ( 同4月号)
  その三 悲しき終止符 (同5月号)
である。太平洋戦争の開戦前後・戦中における海軍と陸軍との確執や、戦争後半の東条内閣打倒運動から敗戦前夜における軍内部の動きなどを、海軍の要職にあった立場で回想している内容だ。
 ソ連への講和仲立ち要請の動き、ポツダム宣言の取扱とか、海軍内部にあってある立場での動きを、当事者として書いている。文中に「S」として出てくるのは筆者の辰巳氏であろうと想像される。
 辰巳亥子夫とは、終戦直前には海軍省教育局長をしながら米内海軍大臣、井上次官などから秘かに終戦工作を命じられたという高木惣吉海軍中将のペンネームである。Sとは惣吉の頭文字からとったのか。東久邇終戦内閣では副書記官長だった人物である。(この項、ウィキメディアを参考にしました)。

 実は「終戦覚書」の発見は、別の記事を探していての副産物である。昭和20年8月に原爆が広島に落とされた直後、トルーマン米大統領がそのことを発表したとの報道を同盟通信が傍受した。
 同盟通信の古野社長は記者を仁科芳雄博士のもとに使わし、その情報(同社戦時調査室が発行していた「敵性情報」と呼ばれていた)を知らせたという事実を、昨年共同通信社(同盟通信の後身)が記事として配信した。
 その記事を書いたO記者からの情報で、その事実を仁科博士が「世界」の第3号に発表していると知ったからだ。
 「世界」の3月号には仁科芳雄博士が「原子爆弾」との題で、前記のことから広島を調査して原子爆弾であることを確認、さらに原子爆弾の原理についても詳しく発表されていた。さらに次月の4月号には、「原子爆弾とアインスタイン」と題するY.N.との署名記事も載っていた。
 当時、広島と長崎に落とされたのは「特殊爆弾」としか、国民に知らされていなかった。それを「原子爆弾」だったと国民に公表されたのは何時だったか。翌年始めには、原爆についての詳細な解説記事までもが発表されていた事実を知った次第である。

2009年10月27日 (火)

大人の休日倶楽部パスの旅(1)

 JR系のジパングクラブの会員になったのは10年ほど前(65歳になった年)だが、JR東日本のサービスである「大人の休日倶楽部」に入ってからも5年ほど過ぎた。当初は「夏「とか「冬」とか季節を選んで年2回の企画だったのが、最近は年4回とサービスが向上した。この企画パスは3日間乗り放題で12,000円、特急(新幹線を含む)の指定席も6回まで利用できる。
 JR東日本管内だけでなく、北陸は福井までJR西日本管内、北海道は津軽海峡線利用で函館まで。第3セクターや私鉄の一部も利用できるというもの。
 利用記録を整理してみた。

【2005年】

宮城・山形の旅 12月 一人旅
 東北新幹線で仙台へ。東北線の利府支線を往復、利府では駅の先端空き地に置いてある交流電気機関車6台を発見、それぞれの形式の1号機ばかりだった。仙台へ戻り、かって勤めていた会社の仙台支社の後輩や旧友と会ったりして仙台泊まり。
 翌日は仙石線で東塩釜途中下車した後に石巻へ。石巻線に乗り継いで終点の女川を散策、折り返して小牛田へ。東北線で石越へ足を延ばし、くりはら田園鉄道を終点の細倉マインパーク前までの全線を往復(2007年4月1日で全線廃止)。東北線で仙台へ戻り前夜と同じホテルに泊まる。
 3日目は再び東北線で小牛田へ。陸羽東線で古川、鳴子に途中下車して新庄へ。新幹線車両による普通列車で山形へ。帰りは山形新幹線のグリーン車を利用、4千円増しでグリーン車が利用できた(現在はこの制度はない)。

【2006年】

秋田・青森の旅 2月 一人旅
 秋田新幹線から男鹿線で男鹿を往復、奥羽線で弘前へ。市内バスで弘前城を訪ね、岩木山の眺望を楽しむ。
 翌日は弘南鉄道弘南線で黒石へ(この私鉄はパスには含まれない)。路線バスで弘前へ戻り、奥羽線を乗り継いで青森へ。
 3日目は津軽線で蟹田に途中下車の後、終点の三厩を往復。降り続く雪原を走る。単線のローカル線で普通列車は少ないのに海峡線の特急や長い編成の貨物列車が頻繁に通過する。青森から東北線特急で盛岡へ。事故のため途中の八戸へで1時間以上も待機、盛岡からの新幹線は予定の列車に乗れず。臨時列車があったので駅寝せずに帰京できた。

道南の旅 12月 夫婦二人旅
 東北新幹線で八戸乗り換えで東北線・津軽線・海峡線と特急でとばし雪の降る函館へ。
 翌日は市電を駅前から谷地頭まで往復後、江差線で終点江差へ。帰りは木古内で海峡線に乗り換え、八戸へ。
 3日目は八戸城を散策して青い森鉄道で三戸に途中下車、IGRいわて銀河鉄道でいわて沼宮内、好摩と途中下車して盛岡へ。夕暮れ時の盛岡城跡、石割桜などと市内散策を楽しむ。東北新幹線始発で帰京。

=続く=

2009年7月31日 (金)

「剣岳 点の記」を観た、読んだ

 立山連峰剣岳、陸軍参謀本部陸地測量部が作る日本の地形図で最後まで空白だった山岳地帯、だったのだ。そこを測量のため陸地測量部から派遣される測量隊苦闘の記録である。かっては山登りも楽しみ(低山徘徊組だが)、地形図マニアでもある私にとって、見ておかなければならない映画であった。これは見終わってからの感想だが。
 近くに住む石川氏を誘って、MOVIX橋本までバスで出かけた。開演5分前までロビーで待たされたが、エスカレーターを登るとすぐ前のステージが今回の上映室。数百人分の観客収容力があるように見えたが見渡したところ2、30人ほどのお客さんだった。

 宣伝映像が長く続いたあとで、やっと本番が始まる。参謀本部陸地測量部の門の前のカットから。
 測量手柴崎芳太郎が陸地測量部長(少将)の部屋へ、部長から前人未登の剣岳登攀と付近一帯の測量を命じられる。部長は秀吉??NHK大河ドラマ「天地人」の見過ぎか。科長(中佐)や班長(大尉)たちが立ち会うが、彼らの階級を知るのは後で読んだ「プログラム」でだ。時代は明治40年前後、当時の日本陸軍将校は階級章を付けていなかった。

 山岳信仰の聖地の一つである立山でも、剣岳だけは「死の山」として立山仲語(立山案内の先達)たちは近づかない。信仰登山とは関係が薄い集落の人たちが測量隊の案内やボッカ役を担うことになる。途中で出会う修験行者の謎に満ちた助言を受けたりしながら、前人未到の険阻な山岳地帯を風雪の自然現象とも戦いながら、ついに剣岳頂上に達し、四等三角点を設ける。「針の山」とも言われていたこの山頂に、60Kgを越える標石を運びあげることは不可能だった。
 それからが本番の仕事だ。前哨戦として付近の山々の頂に設置してきた三角点を再度訪れ、相互の方位角、標高差などの測量に入る。途中で出会い、剣岳初登攀を競った山岳会のリーダー小島烏水に「われわれは山に登るのが目的だが、測量隊は登ってからが仕事だ」と言わしめる。

 苦労を重ねて剣岳初登攀かと感激しながら山頂の回りを見渡すと、修験道の行者が使う銀杖の頭と錆びた剣を発見する。人類未踏の頂ではなく、古の修験者がこの頂に到達した形跡がそこにあった。
 芝崎からの登頂成功の報告電報にこのことが付記されていたのを見た陸地測量部長は、それまでの初登攀に執着していたのにすっかり興味を失ってしまう。地形測量ではなく、「初登攀」が最大の関心事だったのか。

 山岳映画なのにヘリコプターなどの空撮を用いず、すべて現地実写だという。晴れにしろ嵐にしろ、立山連峰から北アルプス連山を見渡すあの感動あふれる映像は、私の胸にも深く刻み込まれた。
 感動が消えないうちにと映画館を出たその足で、橋本駅近くの本屋で新田次郎著「剣岳<点の記>」(文春文庫)と、5万分の1地形図「立山」「黒部」(国土地理院)を買い求めた。
 剣岳山頂には三角点2997.1mのすぐ西に、標石のある基準点2999mが表示されている。文庫本の方は、7月30日(これを書いているうちに昨日になってしまった)に読了した。

 案内人リーダーの宇治長次郎が初めて剣岳山頂に立ったのが明治40年7月13日だったという。映画を観たのが記念すべき日だった。

2009年7月18日 (土)

鹿がキスゲを食べちゃった

 甲府盆地を囲む山々がすべてその稜線が見渡せる良い天気、暑さを避けて霧ヶ峰へとドライブに出かけた。茅野・諏訪ICで中央道を降り、国道20号に出て四賀から霧ヶ峰へと山道を登る。霧ヶ峰十字路の駐車場は車もまばら、それでも同じ年頃に見えるご夫婦がハイキングの支度を整えている。
 こちらの目的地は八島湿原、いまは無料となったビーナスラインを先へと進む。八島湿原の駐車場には結構な先客が車を止めていた。目の前に聳える鷲が峰の斜面には、期待していたキスゲが見あたらず一面に緑のかやとに覆われていた。駐車整理の人に「もう咲き終わってしまったの?」と聞くと、「鹿に食べられてしまい、めっきり少なくなってしまった。10年ほど前からだよ」と。ガッカリ!前に来たのはそんな昔だったっけ。

P7160005  【写真】イブキロラノオに遊ぶ蝶

 湿原の散策に入る。ニッコウキスゲはちらほらだが、その他の季節の花たちは咲いている。シシウド、それに似たのがオオカサモチだと妻の説明。ヨツバヒヨドリはまだ蕾。キバナノヤマオダマキウツボグサ、ヨツバヒヨドリ、カラマツソウ、ハナショウブアヤメ・・・・。黄色い花はキンバイソウかその八重咲きかと、妻は迷っている。
 ここには少しだが水も溜まっていて、コバイケイソウも咲いている。歳のせいか湿原を一周する元気はない。駐車場に戻ると車は一杯になっていた。

 いつもの車山の肩クロボックルで休憩しようと近づいたが、駐車場は満杯、昼時と時間が悪かった。近くの散策路には一面にキスゲが咲いているが、あきらめて先へと車を進め、展望台で一休み。左から八ヶ岳連峰、富士山、南・中央・北アルプスと眺め回せる眺望が素晴らしい。遠くには木曽御岳、乗鞍岳も雪を残す姿が遠望できる。
 次の展望台に車を止めて振り返ると、車山からの斜面にキスゲがいっぱい咲いている。7ぶ咲きと案内板に説明が。「私有地」という看板は気になるが。

P7160034  帰路には白樺湖を降りた集落の北山郵便局、少し走って尖石石器遺跡下の豊平郵便局にも立ち寄り、旅の記録として2局を加える。原村から眺める南八ヶ岳の連山が懐かしい。硫黄岳、横岳、赤岳と縦走した若い頃を思い出して。富士見の乙事亭でそばを食べ、帰路に就く。
 この日は猛暑、甲府の最高温度は37度を超えていたとか。絶好の避暑ドライブだったのだ。

(ドライブした日:2009年7月16日)

2009年7月 6日 (月)

山形鉄道に乗って

 大人の休日倶楽部パスを利用して、山形・新潟方面を巡ってきた。主な目的は第3セクターの山形鉄道フラワー長井線(旧国鉄長井線)に乗ること、ついでにJR米沢線、越後線にも乗ってみたいと、妻と二人での旅である。

 山形新幹線を米沢で途中下車、米沢駅前郵便局でこの旅で最初の旅行貯金をする。奥羽線普通電車で赤湯へ。ここでも赤湯駅前簡易郵便局に立ち寄る。目的の山形鉄道で終点荒砥まで、長井のあやめ公園を車窓から眺めて一気に乗ってしまう。途中では沿線に数校ある高校生が代わる代わる乗り込み、昼過ぎだというのに高校生の通学電車だ。
2009_0630090009  白兎、蚕桑、鮎貝と、その土地の産業を連想しながら終点に着く。最上川の上流地帯を走るのだが、一面の田圃で、兎や蚕を連想しにくい。終点は西置賜郡白鷹町、荒砥郵便局に寄ったあと駅への帰路に八幡神社に詣でる。小高い山は城跡で、境内には町指定の記念物である八乙女種蒔まき桜の古木がある。

 荒砥と鮎貝の間で最上川に架かる鉄橋はドイツ製とかで、日本土木学会指定の記念物であるとか。今泉で下車、豊田郵便局へ。妻の旧姓は「豊田」なのでびっくり! ここは長井市内で、今泉という名の郵便局はない。今泉からはJR米坂線米沢経由で高畠へ。泊まりは駅に隣接する「フォルクローロ高畠」、駅舎は町営の温泉施設太陽館の中にある。
 その昔、この駅を中心に「高畠電鉄」が走っていた。廃線跡は遊歩道になっている。翌日は3キロほど離れた糠野目郵便局へ。新幹線が走る前までは、高畠は糠野目と称する無人駅だった。ここは東置賜郡高畠町である。

 米坂線に米沢から坂町まで全線を乗る。小国を過ぎると越後金丸、県境に峠など見あたらない。坂町郵便局へ寄ってから羽越線で新発田へ。西口の新発田諏訪町郵便局から駅への途中で公園に静態保存のD51を見ながら休憩。駅近くの地下道をくぐって東口の新発田豊町簡易郵便局まで足をのばす。小さな局舎内の天井には合格祈念の絵馬がびっしり、ちょっとした見物である。

2009_070109b0017  羽越線の列車は新発田から新潟間は白新線経由となる。本来の羽越線新発田=新津間はローカル線、それも電化区間なのに乗ったのは気動車、でも新製のキハ120系であった。新津では信越線各駅電車に乗り継いで長岡へ。改札前のロビーには良寛さんの像が建っている。長岡といえば、幕末は長岡藩の河井継之助、太平洋戦争では連合艦隊司令長官の山本五十六、戦後には政界のドン田中角栄と誰でも知っている人物の地元である。
 JR運営のホテルメッツ長岡に泊まる。翌朝は小雨の降る中ゆうちょ銀行長岡店へ。局前の道路には市が立っていた。駅への帰路に「長岡戦災記念館」にも立ち寄ったが、この日ひらかれる講演会は残念だが失礼した。

 信越線各駅電車で柏崎へ。柏崎郵便局に寄ってから越後線電車に乗る。原発の刈羽、ひとつおいて礼拝(らいはいと読む)と、降りてみたい駅を通過する。この電車は吉田から弥彦線に入って東三条行きである。吉田では妻を駅の待合室に残し、雨の中を吉田中町簡易郵便局と踏切を渡って駅東側の越後吉田郵便局へと走り回る。跨線橋を渡るのに息が切れた。老人は歳を考えないと!!
 吉田=新潟間は6両編成の電車が走る。時間帯が今日も高校生の下校時間であった。新潟市内に入ると大学生も混じってくる。新潟駅の新幹線口へ出てみたがまだ工事中、忠犬タマ公の像がある。こちら側には郵便局はない。西口へ回っても、前回来たときと様子が変わっていると妻の感想。都内のラッシュアワーを勘案して、適当な時間の新幹線予約席をとる。

=旅した日:2009年6月29日~7月1日の3日間=

2009年6月27日 (土)

三崎の魚市場を見学

 「雨は降る降る/城ヶ島の磯に/利休ねずみの/雨が降る・・・・」と北原白秋が詠った城ヶ島の磯に建つホテルに泊まったというのに、夜の宴会でカラオケにこの歌を選んだものがいなかったのは残念。
2009_06250050_2  翌日はホテルの送迎バスで城ヶ島大橋を渡り、魚市場を訪ねた。同乗の相客4人の方々には迷惑だったかもしれないが、漁港の中をドライブするのも珍しかったかも。
 3階建てに見える魚市場の2階は見学コースになっている。白く凍った冷凍マグロが床いっぱいに並べられ、その間を係の人たちが働いている。マグロは黒い魚だと思っていたのが。岸壁には数隻の遠洋マグロ船が横付けされていたので、水揚げされたばかりのものもあるのだろう。さっきのバスの運転手氏のはなしでは「焼津から陸を泳いできたのもあるのでは・・」と冗談話もあったが。

 電ノコで尾の部分を切り離していた。その断面が上を向くように、本体の脇に転がしてある。プロはそれを見ただけで、善し悪しが分かるらしい。セリではなく、入札なのか、予想していた威勢の良いかけ声は聞こえてこない。仕入れたマグロは、そばまで乗り入れてある車に載せていく。
2009_06250052_5  10時半のセリ終了間際だったためか、日本で一・二を競うマグロ市場としては、少々物足りなさを感じる扱い量ではあったが。
 ご一行様とは一足さきに見学コースを離れ、建物の1階にある三浦三崎郵便局にてご当地訪問の記録を貯金する。
 少し離れた産直センター「うらり」の中を、冷やかしながら散策する。お土産を求めた仲間もいたが。岸壁には大分県海洋高校の実習船などが繋留されていた。
 早い昼食でもと近くを歩いたが、メニューはマグロばかり。多少食傷気味なので遠慮する。バス停で、近くの小山の上に立つお寺を参拝するという仲間の荷物番をしながら、しばしの休憩。路線バスで三崎口駅へ。観光客を中心に結構ギュウづめに乗っている。

 帰りは金沢文庫駅にて仲間と別れ、逗子線に乗り換えて新逗子へ。逗子郵便局を訪ねると、窓口嬢は「明日からアロハに着替えます」とのこと。明日は逗子海岸の海開きなのだ。
 JR逗子駅前で、乗り場ごとに運転手氏に地図を見せながら郵便局付近を通るか聞くのだが、ちょと無理か。3番目の乗り場が良いだろうとの助言あり。海岸通り経由の葉山・一色行きのバスに乗る。
 海岸通りというのは狭い道だ。マリーナーとか海水浴場とかが並ぶ海辺の道路である。右手に郵便局を見つけた運転手氏が教えてくれる。森戸海岸バス停から少し戻って、葉山堀内郵便局に寄る。ホリウチと読む地名だ。手持ちの地形図にある位置とは異なる。昨年に移転したばかりだという。

 この日は、逗子市と三浦郡(葉山町)と郵便局を訪ねた。これで神奈川県下の20市7郡すべてを訪ねたことになる。昨日の金沢文庫は横浜市金沢区で、特別行政都市の「区」も1つ増えたわけである。

=訪れた日:2009年6月25日=

2009年6月26日 (金)

金沢文庫を短訪

 高校の同級会で三浦半島突端、城ヶ島のホテルへの旅行会が設定された。私も幹事団の一人ではある。
 横浜線を横浜まで、乗り換えた京浜急行線は金沢文庫止まりの各駅停車だった。先頭車の一番前の席に座り、ワンハンドル制御(1600系)の運転を眺めながら前景を楽しむ。京浜急行線は東京近郊には珍しいトンネルが多い線区である。トンネルの間に駅がある感じ。
 この列車の終点、金沢文庫駅の西口へ出る。バス乗り場を右手に回ると、大通りの一つ手前の道を少し入ったところに金沢文庫駅前郵便局がある。駅前広場に戻って、地下道をくぐり、国道に架かる歩道橋を渡ると、これも小さな金沢文庫郵便局あった。

 国道を駅へと戻るため歩道を歩いていると、「金沢文庫へ700メートル」との表示が目にとまった。今日の集合時間までには余裕があるので、寄り道しようと角を曲がる。自動車は一方通行の狭い道を、片側だけに緑色の塗装があるところを歩きはじめる。途中で追い越しがてらに声をかけた男性も、行き先は同じだという。
 ホテルでの会合だというのでジャケットを着てきたのが失敗、日は照っていないものの暑さと湿度の高いのには往生した。出会ったご婦人に聞くと、"あと2~3分で赤門が見えてくる”とか。さらに進むと、左へ曲がる角に、近道と案内が出ていた。そこからでも3分ほどは歩いたか。

 入ったのは裏口だったのか。65歳以上は無料だと(7月1日からは1コインの100円になる)。受付でバスの時間を教えてくれたが、それまでに20分足らずの時間しかない。1階は仏像が多く展示されている。
 案内によると、鎌倉時代の北条時実によって創建された、武家の書庫なのである。その後も代々の人々によって受け継がれて膨大な書籍を残したのだという。鎌倉幕府の執権を受け継ぐ、金沢北条氏の支流で、武蔵国六浦庄金沢に拠点をおいた一族なのだ。
 現在は、神奈川県立金沢文庫となっている。

2009_06250044  2階では、横浜開港150周年記念の企画展として、「中世の港湾都市六浦」の展示がなされていた。主に古文書ばかりで、急ぎ足で回るにはその説明文を読んでいる余裕がない。ただ、旧陸軍が撮影した六浦周辺の空中写真が気になった。現在の地形図を較べてみたかったのだ。
 あとでゆっくりと読みたいので、今の企画展と、数年前に行われた企画展「最後の神奈川奉行・依田伊勢守盛克」の図録を求めた。2日間にわたって2冊を持ち歩いたのが、難行の始まりであったが。

 正門をでると小さなトンネルを抜け、称名寺の庭園、山門を過ぎて赤門へとたどり着く。この寺も、時実が建立したという。寺の境内に、金沢文庫が建っているのだ。路線バスで駅へと戻る。久里浜行きの特快、さらに乗り継いで三崎口へと着く(久里浜からは一部を除いて単線区間だ)。ここで一同と落ち合おう段取りなのだが誰もきていない。全員がホテルからの送迎バスに間に合う時刻にぞろぞろと改札口を出てきた。参加者17名のクラス会となる。

=訪ねた時:2009年6月24日=
 

2009年3月28日 (土)

じゃが芋を植え付けました

 今年もじゃが芋(男爵種)の種芋を3キログラムを用意しました。前日(26日)にコンポストで10年ほど溜めておいた生ゴミを撒き散らし、テーラーで耕しておいた畑に畝を切りました。尺縄(しゃくなわ)で間隔も計って鍬を振るうのを見ていた妻は、「本式にやらないで、移植ごてで埋けておけばアー」と言うが、道具を使えるあいだはなるべく本式を真似て作業したいと思う。しかし、後期高齢者ともなれば、いつまでこのような方法が続けられるか自信はないが。

 種芋をひとつひとつ眺め回し、芽のでるところが数カ所含むように2つか3っつに包丁で切り分ける。芋は大小ばらばらなので、大きいのは3っつに、ほとんどは2つにするが、小さいのはそのまま。切った芋は灰の中に入れ、十分に切断面に灰をまぶしつける。適当な数の切り分けが進んだところで、畝の溝に置いてみる。間隔は靴の長さより前後に3センチほどが目安とする。1畝の長さに10個がいい具合である。
 畝は5本あるので、ちょうど50株となる。3キログラムの種芋が50個になったのだ。

031  事前に堆肥を鋤込んだりしていないので、間に合わせとして乾燥牛糞肥料を種芋の間に一握りづつ放り込んでおいた。芽が出て根も張ってくるころには、牛糞が効いてくるだろうと、期待しながら。成長して葉っぱが20センチほどの頃に、化成肥料を与えて土寄せをするのが、例年の作業なのだ。

 ただ土を掛ける作業なのだが、ひと畝ごとに腰を伸ばして一休み しないと続かない。やっぱり歳ですね。あと何年この作業ができるかな--と。
 これでなんとか今年もじゃが芋が植えられた。一月ほどすぎれば(4月の末か5月のGWあたりか)芽を出してくれるだろう。それが楽しみである。それまでどこかの家で放し飼いの犬が遊びに来なければいいのだが。

 道具の後片付けをしていたら、物置に去年収穫したじゃが芋が数10個残っていた。芽を出しているのを欠いてみたが、芯が傷んでいたりするのも多いけど、半分ぐらいは食べられそうだ。
 農作業中も庭や畑の周りでは、ウグイスがまだ葉が出ていない梅や柿の木、モッコクや樫の木などを渡り歩きながら鳴いていた。それも完全なメロディで、大声を出して春を謳歌している様子だった。

=作業した日:2009年3月27日=

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